幽霊の背⑤
「――と、いうわけで、母さんの記憶は私にないんだ。だから虐待されてもいないし――愛されてもいない……なあ上崎、私の事、好き?」
――ニャ。
一声鳴いて、アンバーが肩からずり落ちる。
それを優しくカバーしながら、光が笑い、心話を返す。
(人間的にって事だよ、りりせさん)
そして、光は奈津美に強く頷く。
「うん、好きだよ」
だが、奈津美はまだ、得心しない。
「なんで? 私、愛想悪いし、ツンケンしてるやな女ってみんなに言われてるよ。事実だから腹も立たないけど」
「いや、渡部さんは優しいよ。確かにそれくらいしか僕は渡部さんの事を知らないけど、優しい人は僕は好きだよ」
「――そんな事……」
言い淀む奈津美を置いて、アンバーは廊下をあちこち探っている。
(光くん、幽霊の居場所、わかりましたよ)
「え、どこに?」
(その前に、対処法を考えないといけません。奈津美さんの過去に因縁がありそうです)
「ど、どこって、何が」
自分への問いだと思って、慌てる奈津美。
(光くん、アルバム――と答えて下さい)
奈津美の過去を知る。
それは、許される事なのだろうか――と光は思う。
しかし、幽霊の正体を知る為に、それは必要なのだと、りりせは断言する。
◇◇
「はい、とりあえず――残ってプリントアウトしてるのはこれだけ。デジタルデータはまだどこかにあるかもだけれど、とりあえずこれでいい?」
奈津美がアルバムを抱えてくる。
一つ一つ、それを覗き込む二人と一匹。
「なんか恥ずかしいなあ――上崎、あまりじっくり見ないでよ」
「僕も恥ずかしいけど、じっくり見ないとわからないよ――もし心霊写真みたいなのだったら、ぼやけてるかもしれないし」
「ニャー」
「猫に相槌うたれた!?」
「ほ、ほら、それより――順番に、見ていくよ。これは小学生の頃のだね」
竹刀を手にして、キリッとした顔の美少女が微笑んでいる。
――なんだ、いい笑顔で笑えるじゃないか、と光は思う。
(この頃の、僕より――ずっと)
昏い記憶が甦る――。
ぶん。
頭を振って振り払って、アルバムを見ていく。
小学校中学年――ボーイッシュな少女は、写真の中で躍動している。
低学年――幼稚園。
可愛らしいが、特に何も変わったものは見つからない。
幼児期――赤ん坊に近い頃。
「母さんの写真は、一枚も無いんだ。父さんが全部、捨ててしまったって……」
寂しそうに、奈津美は薄く笑う。
しかし、父に抱かれている写真は何枚かある――という事は、撮影したのは母なのだろうか。
ならば、それも少し切ない話だと光は思う。
「何もない――お父さんに抱かれている写真が何枚かあるけど、それだけ――」
「ニャ、ニャー」
(光くん、その左の写真の、お父様の横――)
りりせに促され、写真を見る。
なんの変哲もない――いや、微かな違和感。
「どうかした?」
奈津美が覗き込む。
「奈津――いや渡部さん、これ」
「ん――奈津美でいいよ。どれ?」
光が指差したのは、父に抱かれている1-2歳の奈津美。
そしてその横に、見切れている高齢女性の小さな姿。
「近所のおばさんが入ってしまった? いや、あれ――あれ。なんだか、うっすら記憶が――あれ、なんだろう。なんか、悲しい」
写真を、食い入るように見つめる奈津美。
光も、また覗き込む。
「この女性の服、なんか――ああ、小さくて見えない」
「はい。ルーペ」
奈津美がスマホを差し出し、拡大する。
女性の手に、小さな――幼児用のガラガラが、握られていた。
「――あ。あれ、このガラガラ――少し、覚えてるような――あれ? あれ――なんだろう」
(光くん、私の目を――違いますよ。あなたではなく、奈津美さんに私の目を見せて。キャッツアイは――真実を見抜く目。失われた記憶を――)
「奈津美さん、こっちを見てくれる?」
「え――」
アンバーを抱えた光が、声をかける。
振り向いた奈津美とアンバーの目が、互いを見る。
奈津美の瞳は見開かれ――みるみる大粒の涙が溢れ落ちる。
「おばあちゃん――原木のおばあちゃん!私、なんで!」
奈津美は叫ぶ。
そして、木刀を持ち、立ち上がる。
「こっちだ――」
廊下に飛び出て、左右を見る。
(光くん、私たちも!)
「うん」
アンバーを抱いた光が、後を追う。
「廊下――階段を、何度も何度も、歌いながら上がって、下りて――。上だ」
階段を駆け上がる。
「廊下――洗面台。私が泣くと、蛇口をひねって、また閉めて――ほーら、すごいね、って」
更に廊下の、先を進む。
そこは――突き当たり。何もない。
「おかしい、ここに、何か――確かに――」
(光くん、造りがおかしいです。その壁を調べてみて下さい)
「りりせさん、シーフみたいですよね」
(なんでしょう、それは?)
「隠し扉を見つけるプロですよ。そら、あった」
そこは、塗装で隠された部屋の扉だった。
隠し部屋――あるいは開かずの間。
古い渡部邸だからこそ、誰も気づかなかった部屋。
「私、工具を持ってくる!」
駆け降りていく奈津美を見ながら、光はりりせに聞いてみた。
「りりせさん、開けて大丈夫なものなの?」
(おそらく――気付いてますよね光くん。もうずっと、笑い声は聞こえません。私たちが気付いたから、笑う必要がなくなったのでしょう)
光は、察して頷く。
小一時間かかって、扉はこじ開けられた。
ライトで、照らされた小部屋の中にあったものは――
小さな、一人用のベッド。
サイドテーブル。カラーボックス。
大人一人が、ひっそりと暮らしていた空間。
ベッドの横には――小さなクマのぬいぐるみ。おしゃれな服を着た女の子の人形。
そして、可愛らしいピンクの飾りのついた――ガラガラ。
「――あ」
奈津美の喉から、かすれた音が漏れる。
一歩、踏み出す足が、震えている。
「……あ……あ……」
手が、ガラガラに触れる。
「私――私は、なんで忘れていたんだろう。ぬいぐるみも、人形も、覚えてる。この、ガラガラも――」
奈津美は、ベッドをじっと見つめる。
「具合が悪くなって、あの人はずっとここで臥せっていた。だけど、いなくなってしまうまで、ずっと、いつも、私を抱いて――背負って、歌を歌ってくれた」
背に揺られ聴いた、子守唄の旋律が甦る。
「私は、愛されていた。こんなに深く――こんなに優しく。忘れていてごめん。でも、もう二度と忘れない――」
奈津美は、埃まみれのベッドに倒れ込み、笑顔のまま、泣き続けた。
(光くん、人形や、玩具に残った魂が昇天していきます――羨ましいですね――暖かさ、感じますか?)
「――はい。いま、また――笑っていますね。とても、あたたかいです」
光は泣かなかった。
「僕にも、忘れている――幸せの記憶みたいなものが、あるのかな――」
光が呟く。
(光くんには、いま私がいますよ?)
りりせの返事に、光は頷き――そして、号泣している奈津美を見つめた。
「良かったね奈津美さん――」
◇◇
「はい、光くん。今日はおめでたい日のブレンドハーブティーですよ。どうぞ」
りりせが、真新しいティーポットから、すさまじい色合いの液体を注ぐ。
「え、ええと、りりせさん、これは――」
「祝福のハーブの、ローズ、バジル、金木犀、マリーゴールド、全部入れてみました。さあ、毒味は男の子のお仕事ですよ」
差し出された液体を、ぐいっと飲み干す光。
「あれ、美味しい」
「あれ、とは失礼ですね。まあ、今回も光くんはがんばりましたから、許してあげます」
優美に、笑いながら、自らもカップを口にしたりりせだが、飲み干す前に、その動きが止まった。
微かに、手がふるふると震えている。
「――少し、エキセントリックなお味になりましたね。まあ、悪くはありません」
そう言って笑ったものの、その日りりせがそのカップに口を付ける事は、二度となかった。
光は平然とその液体を飲みながら、言った。
「――原木さんという、遠縁の親戚で、奈津美さんが三歳くらいまでは、男一人になった渡部家に住み込みで働いてくれていたそうです」
実際には、居候的で給料をもらっていたのかすら分からず――病弱でよく寝込み、奈津美の父にもあまり歓迎はされていなかった、との事だ。
しかし、奈津美の事は本当に――たぶん居候する為の口実などではなく、本当に可愛がって、よく背負っては、あやしていた。
よく笑う人だった、と奈津美は言った。
おばあちゃん、あるいは「ばあば」と呼んで、奈津美もよく懐いていたらしい。
「病気が酷くなって――少し認知症気味になって、追い出されるように公的施設に移されて、そのまま――行方知れず。おそらくは――病院で」
大泣きして父を責める奈津美。
罪悪感――。
それが、部屋を塗り込めた理由だろう。
「奈津美さん自身も、あまりに辛い記憶でしたから、逆に思い出せないように自己暗示されていたのかもしれませんね」
――りりせが、アンバーを撫でながら静かに言う。
結局、子猫のアンバーは、この屋敷で引き取って暮らす事になったのだが、その経緯はまた別の機会に。
「でも、なんで今、奈津美さんの前にその――幽霊か、魂かが現れたんでしょう」
お茶を、美味そうに飲みながら光が聞く。
りりせは、少し申し訳なさそうな、なんとも言えない引きつり気味の笑顔で、光のカップに液体を注ぎながら、答えた。
「奈津美さんは部活動もやめて、色々と限界だったのではないでしょうか――多感な時期ですからね」
「あの部屋に残っていた方々が――それを察して、なんとか助けてあげたかったのかもしれません。――或いはもっとつまらない考察も出来ますけれど――その必要もありませんでしょう」
りりせは自分のカップをトレイに乗せて、さっさと片付けながら、光にクラッカーの皿を持ってきた。
温めたクラッカーの香ばしい匂いが、テーブルに広がる。
「りりせさん、奈津美さんは――おばあちゃんは生きている間からすでに幸薄くて――もしかして幽霊のように扱われていたんじゃないかって、心を痛めていたんです」
光が、悲しげに呟く。
りりせは、光のクラッカーに薄いチーズを乗せてやりながら、囁くように答えた。
「そればかりは、もう誰にもわからない事でしょう。しかし――」
光のカップに、さらに液体を注ぐ、りりせ。
「しかし――父母の優しさを知らない奈津美さんの心に、子猫を愛するような――深い愛の記憶があった、というのが答えなのではないでしょうか」
――ニャン。
小さく、アンバーが鳴く。
「ねえ、光くん――幽霊の背に揺られ聴く子守唄は、どのように人の心を癒したのでしょう。私も少し――音楽でもやってみたくなりました」
元天使――律々瀬リカは、何か遠い昔を想うような憂い顔で、静かに微笑んだ。
おしまい。




