幽霊の背③
「広い家だね」
奈津美を見舞いながら、光は言った。
「古いだけだよ。昔は、父さんの仕事の関係の人が大勢来ていたりしたけど、いまはまるでお化け屋敷」
奈津美が、自嘲する。
「お化け!出るの?」
瑞季の声が高くなる。
「出てたまるか、オカルトミズキッ」
ペシっと軽い手刀で奈津美が叩く。
「なんか果物でも買ってくれば良かったかな」
光が言うと、二人の女子が笑う。
「上崎くん、病気じゃないんだし」
「上崎、優しいよね。サンキュ」
バツが悪くなり俯き頭を掻く光に、笑いながら奈津美が言う。
「私も、あんたたちみたいに優しくなれたら良かったのに」
言い終わる前に、瑞季が奈津美をベッドに押し倒した。
「こらー。こんな怪我までして猫助けた女が、それを言うかー」
「いた、痛いって。やめろオカミズ」
「やめない。ほら、上――光くんも手伝って。この子を懲らしめるっ」
「いやそれはやばいでしょ」
光が手を振って拒否し、奈津美もまた笑いながら「嫁に行けなくなるからヤメテ」と言い、3人は大笑いした。
(くすくすくす……)
笑い声。
「あれ――?」
光と、瑞季は一瞬手を止める。
「変な笑い方――ナツミ、腹話術?」
軽口を言いながら見やれば――奈津美は真っ青になって震えていた。
「――まただ。また――2人とも、聞いたよね? ここ最近、ずっとなの。私の周りに誰か居る。私は、幽霊に憑かれている」
オカルト――。
しかし、瑞季は笑わない。
あの鏡の前にいた時と同じ――真剣な目で光を見た。
光は、もう一度――今度は目を閉じて声に集中する。
(くすくすくす――ふふふふふ)
ほんの少しの狂気をはらんだ声が、確かに聞こえる。
だがそれは奈津美の体の方からでは、無かった。
光は少し迷い――2人に言った。
「――何も聞こえない。大丈夫、気のせいか、遠くの人の声を風が運んで来たんだよ。大丈夫だよ」
◇◇
「狂気は感じ――しかし悪意ではなかった、というのですね?」
ポリ。
クラッカーを小さくナイフで切り、上品に口に入れ――しかし音を出して噛んでしまう。
む――。
という顔で、その失敗を悔いながら、りりせが問う。
「笑うだけ――。ああ、名前も呼んだのでしたっけ」
「名前を呼ばれたというのは渡部さんの話で、僕は聞いてはいないんです――りりせさん、クラッカーはもっと気にせず、がぶっと食べてしまえばいいのでは」
りりせは眉を顰めて一言
「まあ、いやらしい」
と言って、またクラッカーのカケラを、口に入れた。
「いやら――いや、まあいいです。あの、まあだから笑うだけで害は無いんで――これはたぶん悪霊ではないですよね」
りりせは、ふう――と、ため息をついた。
「光くん、怪談とか見た事ないんですか」
「りりせさんは見るの?」
「見るわけありません。怖いじゃないですか――一般論の話です。亡霊が現れたら、まあ睨んだりしますけど、他にどんな事をされたら怖いですか?」
――ああ。
なるほど。
「ニタッと笑う――でしょうか」
「そうですね。古来から――笑い、というのは攻撃手段の一つなんですよ」
光の顔が真剣になった。
「僕は軽々しく、大丈夫だなんて言ってしまった。りりせさん、あの日から渡部さんは登校していない。不眠気味だって浦部さんから聞いたけど――ならば」
「一晩中、亡霊に苦しめられているのかもしれませんね――」
光は立ち上がる。
「お父さんがずっと忙しくて、渡部さんは夜も一人なんだ。僕は――付いていてあげないと」
コホッ。
口を押さえて、りりせが咳込む。
「はい?――中学生の男の子と女の子が一晩一緒に……な、なんという不貞なことを。光くん、正気ですか?ああ、退廃のソドムとゴモラにかけて。この世の終わりが来てしまうかもしれませんよ」
「そんな大袈裟な――」
「大袈裟ではありません。ああ、もう――わかりました。お手伝いしますから……光くんは意外と策士ですね。もう一晩だけ待って――明日までにいくつか用意して下さい。いいですね」
――もう一晩。
大丈夫だろうかと、光は悩む。
「いいですね」
静かな怒気を孕んだ、りりせの声。
「はいっ」
反射的に光は返事をしていた。
威圧感――しかしこれは天使の威厳とかそういうものではなく――。
家族に――姉に叱られたような気分。
◇◇
渡部奈津美は夢を見る。
子供の頃の夢。
赤ん坊の頃の夢。
揺られている。
背負われている。
歌が、聞こえる。
子守歌?
誰かが、私をあやしている?
母ではない――。
母は、一度も私に歌など歌った事はないはずだ。
父の言い分でしかないが――私は、生まれる予定がなかった。
母は、私を産む気はなかった。
父が説得して、私は生を受けた。
だが、母には仕事の方が大事だった。
母はすでに父をも愛していなかった。
好きでもない人の子供は――私は愛せない。
母は父にそう言い放ち、出て行った。
もちろんそれは父の言い分だ。
しかし、14歳になったこの時まで、母からの便り一つないという事実は、全てを物語っていないか。
私は――愛を知らない。
私は――愛されていない。
私には――愛はいらない。
そんな面倒な――頼りないものなくても、生きていける。
何かを大事に思ったり――他の命を大事に思ったりすれば――こんな風に怪我をする事になる。
だから――私は。
だのに――私は。
なんで、誰が、私を揺らす。
私を笑うのは誰だ。
嘲笑っているの?
私が泣いていると、現れて――笑うのは誰だ。
笑う――笑われる。
許せない――私を、笑うな。
気がつけば、私は木刀を手にしていた。
体は痛むが、もう動く。
下着に包帯を巻きつけた痛々しい格好のまま、私は立ち上がる。
別に誰もいるわけではないし、仮に誰に見られても構わない。
中学生の、まだ男みたいなこんな体、いくらでも見せてやる。
そうだ――情が薄いのだから羞恥心だって薄いんだ。
でも怒りはある。
何に対して――?
決まっている。
笑う奴に対してだ。
私は不幸なんかじゃない。
私は笑われるような――そんな存在じゃない。
斬ってやる。
この木刀で、斬るように叩く。
私は、笑い声の主を求めて――部屋を出る。




