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13/31

古い町

翌日の昼前、シャワルの家の扉が三度叩かれた。


いつもの強さだった。


開ける前から誰か分かる。


「必要になった」


扉の向こうに立っていたオルドは、挨拶より先にそう言った。


シャワルは少しだけ眉を上げた。


「何が」


「お前が」


「珍しいことを言うな」


「帰るぞ」


「呼びに来て帰るな」


踵を返したオルドの背中へ声を掛ける。


老人は振り向きもせず、


「外套持ってこい。歩いて十五分だ」


と言った。


シャワルは一度家の中へ戻った。


机には読みかけの『風見鶏の街道』第四巻がある。


栞を挟み、閉じる。


眼鏡は置いていった。


外套を羽織って外へ出ると、オルドは本当に道の端で待っていた。


「何があった」


歩きながら尋ねる。


「壊れてない」


「なら帰る」


「最後まで聞け」


「お前が最初に必要だと言った」


「面倒だな、お前」


「知ってるだろ」


二人は並んで歩いた。


昨日、十二件の異常が同じ古い主線より先で起きていることまでは分かった。


今日の朝から、オルドと現役の保守班がその区間を調べていたはずだ。


「外側は問題なし」


オルドが話し始める。


「ひびも大きな魔力漏れもない。補修箇所も見た。古いところは古いが、今すぐ交換が必要な傷み方じゃない」


「中は」


「測れる範囲じゃ変な圧も出てない」


「なら何で俺だ」


「流れが気に入らん」


シャワルが横を見る。


オルドは前を向いたままだった。


「朝、一回だけ例の低下が出た」


「何秒」


「二秒ちょっと」


「主線で?」


「ああ。測定具にも出た。だが、落ちた場所が分からん」


魔力は手前から来て、その古い主線を通り、東区の各所へ分かれていく。


主線そのものに問題があるなら、そのどこかで流れが乱れるはずだった。


だが、保守班の測定ではそれが掴めなかったらしい。


「お前なら何か感じるかもしれん」


「感じなかったら」


「帰す」


「最初から帰してくれ」


「呼んだから来い」


「もう来てる」


「なら黙って歩け」


昨日と同じ町だった。


露店には野菜が並び、通りの隅では荷車が止まっている。


水場にも人がいる。


短い魔力低下が何度か起きたとはいえ、この町で暮らすほとんどの人間にはまだ関係のない話だった。


シャワルは、それでいいと思った。


問題を見つける仕事をしている人間がいるのだから、全員が地下を気にしながら暮らす必要はない。


点検口の周囲には小さな柵が置かれていた。


テオが中から上がってくるところだった。


シャワルを見ると、少し安心したような顔になる。


「来ていただけたんですね」


「そこの老人に連れてこられた」


「お前も老人だ」


オルドがすぐ返す。


テオはどちらへ笑えばいいのか迷ったらしく、結局何も言わなかった。


「状況は」


シャワルが尋ねる。


テオの顔が仕事へ戻る。


「古い主線を三つの区間に分けて確認しました。今のところ、どこにも重大な損傷はありません」


「補修は」


「多いです。ですが全部生きています」


オルドが口を挟む。


「『生きてる』は雑だ」


「正常に機能しています」


「よし」


「細かいな」


シャワルが言う。


「記録に残る言葉は細かくていい」


オルドはそう言って、先に階段を下りた。


シャワルも続く。


地下は思っていたより広かった。


人が二人並んで歩ける程度の通路が、緩やかに曲がりながら続いている。


壁際には町へ魔力を送る太い経路が走っていた。


新しい部分もある。


交換された外装。

追加された支え。

最近の文字で書かれた点検印。


その間に、古い部分が残っている。


年月を重ねた表面へ、新しい補修が幾つも重なっていた。


「思ったより綺麗だな」


シャワルが言う。


テオが少し笑う。


「毎年見てますから」


「そうだろうな」


昨日地図だけを見ていれば、五十年近く使われた古い設備と聞いて、もっと傷んだ物を想像する人もいるかもしれない。


実物は違った。


古い。


それは確かだった。


けれど、放置されてきたわけではない。


削れた部分は補われ、弱った場所は取り替えられ、必要になれば支えも増えている。


何十年も、その時々の人間が手を入れてきた跡があった。


オルドが途中で立ち止まった。


壁際の一箇所を指で撫でる。


「これ、まだ残ってたのか」


テオが覗く。


外側を補強した古い金具だった。


他と比べると形が少し違う。


「いつのです?」


「三十……いや、四十年以上前だ」


「オルドさんが?」


「違う」


オルドは金具の端を見た。


「ヴァンだ」


知らない名前だった。


シャワルは口を挟まない。


「分かるんですか」


テオが聞く。


「ここの曲げ方」


オルドが指先で示す。


「端を内側へ二回入れてるだろ。あいつ、こればっかりやってた」


「記録を確認します」


「そんな古いの残ってるか?」


「戻ったら探します」


オルドが鼻を鳴らした。


少し嬉しそうだった。


また数歩進む。


別の場所で、今度は細い補修線に目を止める。


「こっちはミナだな」


「それも分かるのか」


シャワルが尋ねる。


「多分な」


「多分か」


「本人に聞けりゃいいんだが、もう死んでる」


声は普通だった。


オルドはそのまま歩く。


「ヴァンは?」


「十五年前」


「そうか」


「あと、ここにいた連中だとクレスは北へ行った。たぶんまだ生きてる。ナーダは引退して孫の面倒してるって聞いた」


「あんたは?」


テオが思わず尋ねた。


オルドが振り返る。


「何が」


「引退して、何してるんですか」


シャワルが先に答えた。


「人の家に勝手に手すり付けてる」


「必要だっただろうが!」


地下に笑いが響いた。


近くで作業していた保守員も顔を上げている。


オルドは少し恥ずかしそうに咳払いした。


「仕事しろ」


「今の話始めたのオルドさんですよ」


テオが言う。


「若い奴は口答えだけ上手くなる」


「良い職場だな」


シャワルが言うと、オルドに睨まれた。


一番古い区間まで来た。


太い経路が大きく曲がっている。


昨日オルドが地図で示していた場所だ。


保守班が数人配置され、測定具がいくつか置かれていた。


「ここで朝の低下を取った」


オルドが言う。


「異常が出る前と後は?」


テオが記録を差し出す。


「ほぼ同じです」


「ほぼ?」


「戻った直後だけ少し強い。それ以外は通常範囲です」


シャワルは紙ではなく実物を見る。


眼鏡を持ってこなかったので、細かな数字を読むつもりはない。


「再現できるのか」


「故意にはやりません」


テオが即答した。


「原因が分からない低下を作る方法もありませんし、仮に分かっても、今この主線で試す理由がありません」


「それでいい」


シャワルは頷いた。


異常を調べるために異常を起こす必要はない。


出るまで待てばいい。


問題は、それがいつなのか分からないことだった。


「一時間出ないかもしれんぞ」


オルドが言う。


「なら一時間いる」


「二時間なら」


「昼飯を頼む」


「自分で買え」


「呼んだのお前だ」


「面倒な客だな」


テオが横から言う。


「保守班の昼食、余りがあります」


「ほら」


「お前の味方じゃねえ」


待つことになった。


シャワルは細い風を流した。


設備の内部へ無理に入れるのではない。


外側をなぞるように通す。


熱。


振動。


周囲へ微かに漏れる魔力。


それらを風へ乗せて拾う。


他の保守員も測定具から目を離さない。


シャワルだけが特別な何かを待っているわけではなかった。


全員が違う方法で、同じ異常を待っている。


三十分ほど経った。


何もない。


オルドは途中で座った。


「腰か」


シャワルが尋ねる。


「立ってる必要がないだけだ」


「言うようになったな」


「お前のせいだ」


四十分。


保守員の一人が交代する。


テオも一度水を飲んだ。


シャワルは壁へ背を預ける。


「暇だな」


「事故が起きてない証拠です」


テオが答える。


「それはいいことだ」


「でも調査は進みません」


「贅沢だな」


「仕事なので」


シャワルは笑った。


異常が出たのは、それから十分ほど後だった。


最初に気づいたのは保守員だった。


「低下!」


全員の顔が上がる。


測定具の光が一斉に弱くなる。


シャワルも同時に風の感触を拾った。


来る。


流れていた魔力が薄くなる。


だが、以前と同じだった。


この区間で漏れていない。


ぶつかってもいない。


ただ、入ってくる量そのものが減った。


「手前!」


シャワルが言う。


テオがすぐ走る。


通路の少し上流側に置いた測定具を見る。


「こっちも落ちてます!」


「さらに手前は!」


別の保守員が声を返す。


「落ちてる!」


二秒ほど。


それだけだった。


魔力が戻る。


今度は通常より少し強く流れた。


オルドが表示を見る。


「触るな!」


誰かが調整へ手を伸ばす前に止める。


「自分で戻るところまで見ろ!」


全員が手を出さず、測定だけを続けた。


流れは少し強い。


数秒。


十秒。


やがて通常へ戻った。


何も壊れなかった。


シャワルは風を残したまま、今起きたことを辿る。


「ここじゃない」


声に出す。


テオが戻ってくる。


「何がです?」


「この主線が止めてるんじゃない」


「根拠は」


オルドが聞いた。


昔と同じ問い方だった。


シャワルはすぐ答える。


「手前からもう少なかった」


テオも頷く。


「測定もそうです。この区間へ入る前から落ちています」


「なら昨日より一つ戻れる」


オルドは通路の奥ではなく、入口側を見る。


古い主線そのものが原因とは限らない。


少なくとも、この曲がり角で魔力が失われているわけではない。


「供給側だな」


保守員の一人が言う。


「まだ決めるな」


テオがすぐに止めた。


若い男は少し驚いた顔をした。


テオが続ける。


「ここより手前なのは確かです。でも供給設備そのものとは限りません。途中経路もあります」


「はい」


「次はそっちを切り分ける」


指示が出る。


誰も喜びすぎない。


原因が見つかったわけではない。


ただ、調べなくていい範囲が一つ増えた。


それだけでも十分な前進だった。


作業が落ち着いたところで、テオが古い主線へ手を置いた。


「これじゃなかったんですね」


「まだ全部無罪とは言えん」


オルドが言う。


「古い部分が事故の影響を受けやすい可能性は残る」


「はい」


テオは補修跡を見る。


「昨日、正直ちょっと思いました」


「何を」


「こんな古い物をまだ使ってるから、事故が起きたんじゃないかって」


オルドは怒らなかった。


「普通だ」


「でも、見てみたらちゃんと手が入ってる」


「当たり前だ。俺らの後もずっと誰かが見てきたんだから」


テオは少し申し訳なさそうな顔をする。


「昔の人の仕事を疑ったみたいで」


「疑え」


今度は即答だった。


テオが顔を上げる。


「え?」


「昔の人間だから正しいと思うな。俺の仕事でも怪しかったら疑え」


「でも」


「調べた結果まだ使えるなら使えばいい。駄目なら替えろ」


オルドは古い金具を軽く叩いた。


「古いことと、壊れてることは同じじゃない」


シャワルが隣を見る。


オルドは気づかない。


「古くなるのは、壊れた証拠じゃない」


シャワルが言う。


今度はオルドがこちらを見る。


「同じこと言っただろ」


「少し言い方を良くした」


「勝手に人の台詞を直すな」


テオが笑った。


「でも、シャワルさんが言うと説得力ありますね」


「何で」


テオの視線が、シャワルとオルドを往復する。


言いたいことが分かった。


「言ってみろ」


オルドが低い声で言う。


「いえ」


「言え」


「お二人とも古いので」


オルドの眉が跳ねた。


シャワルは笑った。


「正しい」


「お前は認めるな!」


「七十四だぞ」


「俺まで巻き込むな!」


「七十五だろ」


保守員たちまで笑い始める。


地下の古い通路に、しばらく笑い声が続いた。


帰る前、シャワルはもう一度主線を見た。


古い。


確かに古い。


補修跡も多い。


新しい物と比べれば不格好な場所もある。


だが、今も魔力を運んでいる。


今日も異常が出た二秒間を除けば、町の何百という場所へ必要なものを送り続けていた。


「変な感じだな」


オルドが隣へ来た。


「何が」


「昔触ったところがまだ動いてる」


壁の一箇所を見る。


さっきヴァンという技師の仕事だと言った場所だ。


「ヴァンもミナも死んだ」


「ああ」


「でも、直した物はまだ使われてる」


オルドはしばらく黙っていた。


「だから何だって話だけどな」


シャワルは古い金具を見る。


「別に何でもいいだろ」


「何が」


「意味なんかなくても、残るものは残る」


オルドがこちらを見る。


「本の話か?」


「してない」


「お前がそういう言い方すると全部本に聞こえる」


「病気だな」


「お前のせいだ」


二人で階段へ向かう。


途中、オルドが一度立ち止まり、後ろを振り返った。


「ヴァンの補修、まだ保つかな」


「俺に聞くな。技師だろ」


「元だ」


「便利だな、それ」


オルドが笑う。


「テオに聞く」


「そうしろ」


今度こそ地上へ出た。


外は夕方になりかけていた。


地下に何時間もいた間に、通りの影が長くなっている。


二人はゆっくり歩いた。


シャワルが若かった頃から残っている建物もある。


無くなった店も多い。


昔は食堂だった場所が衣服屋になり、古い宿は取り壊されて小さな広場になっている。


「ここ、パン屋だったな」


オルドが言う。


「まずかったところか」


「安かったんだ」


「硬かった」


「若い頃は量があればよかった」


広場では子供が走っている。


昔の店を知るはずもない。


それで困ることもない。


「町も変わったな」


オルドが呟く。


「変わるだろ」


「お前、寂しくないのか」


シャワルは少し考えた。


「寂しい時はある」


「あるのか」


「人間だぞ」


「本しか気にしないのかと思った」


「お前、俺を何だと思ってる」


オルドが笑う。


シャワルは広場を見る。


昔の店が無くなったことは寂しい。


死んだ人間もいる。


もう会えない。


けれど、今そこを走っている子供へ昔の店を返せとは思わない。


町は変わった。


だからといって、昔あったものまで無かったことにはならない。


「古くなったな」


オルドが言う。


町のことなのか。


自分たちのことなのか。


シャワルには分からなかった。


たぶん両方だった。


「まだ動く」


シャワルが答える。


オルドが横を見る。


「町が?」


「俺たちも」


「俺は腰痛いぞ」


「俺は手が震える」


「駄目じゃねえか」


二人とも笑った。


「でも歩いてる」


シャワルは続ける。


オルドも前を見る。


「そうだな」


それ以上は何も言わなかった。


分かれ道まで来た。


「原因、もう一つ上だな」


オルドが言う。


「たぶんな」


「明日は供給側を見る」


「そうか」


「お前は来るな」


「またか」


「必要なら呼ぶ」


昨日シャワルが言ったのと同じ言葉だった。


「分かった」


今度は素直に答えた。


オルドが疑うような顔をする。


「本当に?」


「必要じゃないなら家で本読む方がいい」


「それなら信用できる」


「どういう意味だ」


「お前が一番言うこと聞く理由だからだ」


オルドは手を上げ、別の道へ歩いていった。


シャワルも家へ向かう。


途中、街灯が一つずつ点き始めた。


古い主線を通ってきた魔力が、今日も灯りを点けている。


その主線には、もう死んだ技師の仕事も残っていた。


誰かが作った。


誰かが直した。


別の誰かがまた直した。


そして今は、テオたちが見ている。


古くなることは、終わることと同じではない。


けれど、古いから永遠に使えるわけでもない。


駄目なら替える。


まだ使えるなら使う。


シャワルは、そのくらいでいいと思った。


自分についても、たぶん同じだった。


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