第3話 波乱の開幕半年前
1
映画祭開催まで、あと6ヶ月。
実行委員会の事務所となった元喫茶店には、夏の湿気と焦燥感が重く立ち込めていた。
「——また全滅か?」
パイプ椅子に深々と腰掛けた山路が、煙草の煙をふぅと吐き出した。
拓郎は、手元のチェックリストに赤ペンで大きなバツ印を書き加えた。
「はい。熱海市内の多目的ホールは、映画専用の音響・投影設備がないという理由で断られました。熱海座(市民会館)も、ちょうどその時期は大改修工事に入るそうで……」
最大の誤算だった。熱海には現在、映画館が一つも存在しない。
かつて山路が営んでいた「熱海キネマ」をはじめ、昭和の盛期には街に幾つもあった映画館はすべて廃業し、マンションや駐車場へと姿を変えていた。
スクリーンも、最新のデジタルプロジェクターも、サラウンドスピーカーもない街で「国際映画祭」を開こうとしていたのだ。
さらに拍車をかけたのが、世界中へ打診した「作品公募」の惨状だった。
佐々木が制作したWebサイトから海外の映画プロダクションや若手監督に向けて作品を募ったものの、届いたのは数件のスパムメールと、怪しげな自主制作ショートフィルムが数本のみ。
「そりゃそうですよ……」佐々木がパソコンの画面を見つめたまま呟く。「『熱海国際映画祭』なんて聞いたこともない極東の小さな街の映画祭に、大事な新作を預ける物好気な監督なんていませんよ」
「黒木監督の名義を使ってもダメなのか?」彩花が腕を組んで尋ねる。
「黒木監督は推薦文を書いてくださいました。ですが、映画界での実績がない『第1回』の映画祭は、監督にとってもリスクなんです。コンペティションとしての権威が保証されていませんから」
冷たい現実が、容赦なく拓郎たちの肩にのしかかる。
会場がない。作品が集まらない。実績もない。
「熱海でカンヌを」という夢は、潮風にあおられて消えかけるろうそくの火のように儚かった。
2
暗雲が立ち込める中、さらに追い打ちをかけるような最悪のニュースが拓郎を襲った。
「市川! 今すぐ役所に戻れ!」
岡本課長からの血相を変えた電話を受け、拓郎は市役所へ走った。
観光推進課の応接室には、重々しい雰囲気が漂っていた。そこにいたのは、地元の大手ホテルチェーン「熱海グランドリゾート」の専務・黒岩だった。
黒岩は、当初映画祭のメインスポンサーとして、運営費の半分に当たる1,000万円の出資と、ホテルの大宴会場をメイン会場として提供することを「内諾」していた人物だ。
「申し訳ない、市川くん」
黒岩は申し訳なさそうに、しかしビジネスマンらしい冷徹な声で言った。
「親会社の意向でね。昨今の燃料費高騰と人件費の上昇を受けて、新規の大規模イベントへの協賛は見合わせることになった。宴会場の無償貸与も……通常のお客様の予約を優先せざるを得ない」
「そんな……! 黒岩専務、1,000万はともかく、会場だけでもなんとかお願いできませんか! ホテルの宴会場が使えなくなったら、メインの上映やオープニングセレモニーができません!」
拓郎は必死で頭を下げた。
「熱海の未来がかかっているんです。どうか……!」
「市川くん、君の情熱は認める」黒岩は立ち上がり、スーツのボタンを留めた。「だがね、夢だけじゃ経営はできないんだよ。実績のない素人集団のイベントに、うちの看板をリスクに晒してまで投資はできない。……悪く思わないでくれ」
黒岩は一度も振り返ることなく、応接室を去っていった。
「……言わんこっちゃない」
岡本課長が大きなため息をついた。
「市川、もう潮時だ。会場も金もない。市長にも『準備不足により延期』と報告する。これ以上深追いして、市や商店街に迷惑をかけるな」
「……延期したら、二度とできません!」
拓郎は拳を握りしめた。
「『第1回』を諦めたら、熱海は永遠に『何も始まらない街』のままです! 資金も会場も、僕が絶対に探してみせます!」
「おい、市川!」
岡本の制止を振り切り、拓郎は市役所を飛び出した。
3
夕暮れの熱海サンビーチ。
波打ち際に一人ぽつんと座り込み、拓郎は頭を抱えていた。
(全部、僕の甘さのせいだ。山路さんの夢を、みんなの好意を、僕が無能なせいで潰してしまう……)
寄せては返す白い波を見つめていると、後ろから砂を踏みしめる足音が聞こえた。
振り返ると、缶ビールを持った彩花と、瓶ラムネを持った山路が立っていた。
「……なんだ、ここで黄昏れてたの?」
彩花が拓郎の隣にドカッと腰を下ろした。冷えた缶ビールを拓郎の頬に押し当てる。
「すみません、お二人とも。僕が……スポンサーも会場も繋ぎ止められなくて……」
「アホか」
山路が麦わら帽子を脱ぎ、頭を掻いた。
「たかがホテル一軒断られたくらいで何をしけ面してんだ。俺が『熱海キネマ』を立ち上げた時はな、映画館の建物すらなくて、みかん倉庫に白布を張って映写機を回したんだぞ」
「みかん倉庫……ですか?」
「そうだよ」山路は海を指さした。「映画ってのはな、立派な映画館やフカフカのシートがなきゃ観られないもんじゃない。スクリーンと、暗闇と、観たいと思う人間がいれば、そこが映画館になるんだ」
彩花も微笑みながら、海を見つめた。
「市川さん、熱海の強みって何だか覚えてる? レトロな街並み、路地裏、廃校、そして……この広い海と砂浜よ」
拓郎はハッと息をのんだ。
「ホテルがダメなら、街全体を映画館にすればいいんじゃない?」
彩花は楽しそうに目を輝かせた。
「閉館した旧温泉病院の講堂、商店街の路地裏の壁、熱海駅前の足湯スペース……そして、このサンビーチ! 砂浜に巨大なスクリーンを立てて、波の音を聞きながら映画を観るの。こんな映画祭、カンヌにだってないわよ!」
「ビーチ・シネマ……!」
拓郎の胸の中で、消えかけていた火が、一気に爆発的な炎となって燃え上がった。
「既存の映画館がないなら、街のあらゆる場所をDIYで劇場に変えればいい。お金がないなら、クラウドファンディングで全国の映画ファンから直接支援を募ろう。作品がないなら……僕たちが一軒一軒、インディーズの映画監督たちに熱海の魅力を直接プレゼンしに行けばいい!」
「ふっ、やっといい顔になったな」山路がニヤリと笑った。「市川くん、覚悟を決めろ。ここからは『泥臭い映画祭』の始まりだぞ!」
4
それからの3ヶ月間、実行委員会は不眠不休の怒涛の日々に突入した。
拓郎は昼間は市役所の業務をこなし、夜はクラウドファンディングのリターン品(地元の温泉チケットや干物セット)の準備と、全国の若手映画監督へのダイレクトメール送りに追われた。
彩花は商店街を駆け回り、小規模な飲食店や旅館から「1口5万円」の協賛金を泥臭く集めて回った。最初は冷ややかだった店主たちも、連日汗だくで頭を下げる彩花と拓郎の姿に、次第に「……たく、しょうがねえな」と財布の紐を緩め始めた。
佐々木と由佳は、SNSで「#熱海を映画の街に」というハッシュタグを立ち上げ、廃校の講堂を手作りで映画館にリノベーションしていく様子を毎日配信した。その健気な姿がTikTokやX(旧Twitter)でバズり、全国から「手伝いたい」というボランティアの若者たちが熱海に集まり始めた。
そして、開催まであと2ヶ月となったある日。
事務局の古びたファックスが、ガタガタと音を立てて一枚の紙を吐き出した。
フランス語と英語で書かれたその書面を見た佐々木が、ひっくり返るような悲鳴をあげた。
「た、拓郎!! 大変だ!!!」
「どうした佐々木、落ち着け!」
「カンヌ国際映画祭のショートフィルム部門でノミネートされた、フランスの新鋭、ジャン=リュック監督からだ……! 『熱海のビーチで映画を上映する試みに深く感銘を受けた。私の新作のワールドプレミア(世界初上映)を、熱海で行いたい』って……!!!」
事務局内に静寂が訪れ、次の瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。
拓郎と彩花は思わず手を取り合い、跳び上がった。山路は涙を浮かべながら、古びたパンフレットを強く抱きしめていた。
一つの「無謀なアイデア」が、国境を越えて本物の映画人の心を動かした瞬間だった。
だが、彼らはまだ知らなかった。
映画祭の開会式を明日に控えたその日、超大型の台風が直撃し、砂浜に組み上げた渾身の屋外スクリーンが、容赦ない暴風雨によって崩壊することになろうとは——。




