最終話 嵐の夜と、立ち上がる街
1
「熱海国際映画祭」開幕まで、あと24時間。
熱海サンビーチには、巨大な屋外用エアスクリーンがそびえ立ち、砂浜には手作りの竹製ベンチと300脚のパイプ椅子が美しく整列していた。路地裏の廃校も、旧温泉病院の講堂も、レトロな照明と音響機材が運び込まれ、一端の「映画館」へと生まれ変わっていた。
フランスのジャン=リュック監督をはじめ、アジアやヨーロッパ、そして日本のインディーズ界から総勢15名の映画監督たちが熱海に到着し、街の居酒屋や温泉宿はかつてない熱気に包まれていた。
「市川さん、完璧です! 明日は最高の天気になりそうですね!」
ボランティアの高校生たちを率いる由佳が、汗を拭いながら満面の笑みを向けた。
拓郎もまた、胸の奥からこみ上げる震えを感じていた。
「ああ。本当に……ここまで来られたんだな」
だが、その平和な時間は唐突に打ち砕かれた。
事務局に飛び込んできた佐々木が、スマホの画面を突き出しながら絶叫した。
「拓郎、ニュースを見ろ! 台風19号の進路が急変した!!」
画面に映し出された気象衛星の画像には、巨大な渦を巻く台風が、勢力を保ったまま相模湾へ一直線に向かってくる予測線が描かれていた。暴風域の到達予想時刻は、まさに今夜未明。映画祭初日の明け方だ。
「そんな……直撃コースじゃないか!」
一瞬で、場の空気が凍りついた。
2
その夜、熱海は猛烈な暴風雨に包まれた。
叩きつけるような雨と、地鳴りのような潮騒。
拓郎たちは事務局に缶詰めになり、祈るような思いで外の嵐を見つめていた。窓ガラスが激しくガタガタと揺れ、停電によって街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
「市川くん、外へ出ちゃだめだ!」山路が拓郎の肩を強く掴む。
「でも、サンビーチのスクリーンが……!」
「命より大事なイベントなんてない! 今は耐えるんだ!」
午前4時。台風は熱海市を通過し、太平洋へと抜けて行った。
雨が上がり、東の空がゆっくりと白み始めた頃、拓郎たちは這うようにしてサンビーチへ駆けつけた。
そこに広がっていたのは、絶望的な光景だった。
暴風によって吹き飛ばされた竹製ベンチは砕け散り、砂浜のスクリーン骨組みは無惨に折り曲げられ、波打ち際に打ち上げられていた。音響機材を護るはずだった防水シートは引き裂かれ、砂まみれになっている。
旧温泉病院の会場も風で窓ガラスが割れ、雨水が浸水して上映用PCやプロジェクターが全滅状態だった。
「……嘘だろ」
佐々木がその場に崩れ落ちた。
由佳は唇を噛み締め、声もなく涙を流している。
「開催は無理です……」市役所から駆けつけた岡本課長が、重い口を開いた。「会場が壊滅している。安全面も保証できない。市川、中止の発表をしろ。これ以上の混乱は避けなきゃならん」
拓郎は膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で耐えた。
半年間の苦労、全国から集まったボランティアの思い、海外から遥々やってきてくれた監督たちの期待。すべてが、一夜にして泡となって消えてしまったのか。
「……中止、ですか」
拓郎が絞り出すような声で呟いたその時。
「——誰が中止にするって言ったのよ!」
力強い声が、静まり返った砂浜に響き渡った。
振り返ると、長靴を履き、スコップを担いだ真壁彩花が立っていた。
その背後には、異様な光景が広がっていた。
3
「市川さん、ボサッとしてんじゃないわよ!」
彩花の後ろから続々と歩いてきたのは、熱海銀座商店街の店主たち、旅館の仲居さん、若手経営者、そして近所の住民たちだった。その数、およそ200人。
「ちょっと彩花ちゃん、うちの軽トラ乗ってきたから機材運ぶよ!」
「乾いたタオルとブルーシート、旅館からありったけ持って来たぞ!」
「干物屋の親父たちが今、砂浜の瓦礫撤去始めてる!」
口々に声を上げながら、街の人々が一斉に作業を始めた。
「みんな……なんで……?」拓郎は呆然と問いかけた。
老舗中華料理店の店主が、スコップで砂をかき分けながら笑った。
「なんでって、お前さんたちが毎日泥だらけになって準備してるの見てただろ! 『熱海を映画の街にする』って、本気でバカやってる若者を放っておけるかよ!」
「そうよ!」彩花が拓郎の胸を小突いた。「熱海はね、何度も温泉の暴落や災害を乗り越えてきた街なの! 台風一発くらいで諦めるほど、やわな街じゃないわよ!」
さらに、ホテルのロビーで待機していたはずのフランス人監督、ジャン=リュックも作業着姿で現れた。
「拓郎! 映画の制作だってトラブルの連続だ! サンビーチがダメなら、別の場所で上映すればいい! 映画はどこでも映せるんだろ?」
その言葉に、拓郎の瞳に再び光が宿った。
「……そうだ。まだ終わってない!」
拓郎は叫んだ。
「全員に連絡! サンビーチの屋外上映は、商店街のアーケード内に変更します! アーケードの屋根を使えば雨も凌げる! 浸水した会場の機材は、地元の公民館と学校から借り集めます! 開幕時間を3時間遅らせます……12時、熱海国際映画祭を開会します!!」
「「「おーっ!!!」」」
浜辺に、地鳴りのような歓声が上がった。
市役所の岡本課長も、呆れたように笑いながら腕まくりをした。
「……まったく、うちの職員はどいつもこいつも言うことを聞かん。市役所の予備プロジェクター、全部持って来い! 警備は俺が仕切る!」
「課長……!」
街が、行政が、市民が、映画人が。
一つの目的に向かって、完全にひとつになった瞬間だった。
4
正午。
台風が去った熱海の空は、洗われたような眩しい快晴——文字通りの「台風一過」となっていた。
熱海銀座商店街のアーケードには、市民とボランティアが徹夜で作り直した特設会場が完成していた。アーケードの天井から吊り下げられた白布がスクリーンとなり、沿道のカフェから借りてきた椅子がズラリと並んでいる。
「——大変お待たせいたしました!」
市川拓郎は、マイクを握り締め、満員の観客の前に立った。
集まったのは地元住民、全国から駆けつけた映画ファン、観光客、そして海外の映画人たち。約1,000人の熱気が、アーケード内に充満している。
「昨夜の台風で、僕たちの会場は一度すべて失われました。……ですが、この街の人々が、全員で映画祭を拾い集めてくれました。熱海には、映画館はありません。ですが、この街全体が、世界で一番温かい映画館です!」
拍手が巻き起こった。拓郎は隣に立つ山路、そして彩花と目を合わせ、深々と頭を下げた。
「ただいまより、第1回熱海国際映画祭を開会します!!」
ワァッ、という大きな歓声とともに、街中にベルの音が響き渡った。
スクリーンの光が点灯し、ジャン=リュック監督のオープニング作品が映し出される。
アーケードの隙間から差し込む太陽の光と、遠くから聞こえる相模湾の波の音。
映画の物語と、熱海の街の風景が見事に溶け合っていく。
観客席の後方で、山路がそっと目元を拭った。
「……見ろ、拓郎くん。熱海が、映画の海になったぞ」
拓郎は、隣で静かに微笑む彩花の横顔と、スクリーンを見つめる街の人々の輝くような笑顔を見つめた。
予算ゼロ、前例ゼロから始まった無謀な夢。
それは今、この熱海の潮風の中で、確かな「現実」として輝いていた。
エピローグ
こうして第1回「熱海国際映画祭」は、3日間の会期で延べ1万5,000人以上を動員し、大盛況のうちに幕を閉じた。
その後、この映画祭は毎年恒例のイベントとなり、熱海は「温泉と映画の街」として世界中の映画ファンから愛される場所となっていった。拓郎と彩花、そして熱海の人々の挑戦は、これからも続いていく。
完




