第2話 冷ややかな壁と、最初の仲間
1
「——で? 予算ゼロ、ノウハウゼロ、前例ゼロで、カンヌをやろうってのか?」
観光推進課長・岡本のダミ声が、打ち合わせスペースに響き渡った。
岡本は拓郎が差し出した三枚の企画書を、まるで汚いものでも見るかのように人差し指で突いた。
「市川、お前ももう28だろ。入庁5年目で何夢みたいなこと言ってんだ。来月には『熱海海上花火大会』の警備計画があるし、秋の『もみじ祭り』の広報も遅れてる。こんな絵空事に割く時間も人手も、うちの課にはないぞ」
「課長、絵空事じゃありません」
拓郎は身を乗り出した。「山路さんだけじゃないんです。あの黒木重雄監督が協力すると言っています。もし世界中から映画人や観客が熱海に集まれば、一発屋の観光イベントじゃなく、通年で人が集まる『文化の街』として熱海を再ブランディングできます」
「黒木監督だかなんだか知らんがね、行政が動くには『実績』と『根拠』が必要なんだよ!」
岡本はデスクをドンと叩いた。
「もし事故でも起きてみろ。スポンサーが集まらなくて赤字を出したら誰が責任を取る? 市長になんて説明するんだ?」
完璧なロジックだった。行政の事保主義(事無主義)としては、ぐうの音も出ない正論だ。
だが、そのとき、隣で黙って話を聞いていた課長補佐の神田が、眼鏡の奥の目を細めて口を開いた。
「岡本課長。これ、『行政主催』にするからハードルが高いんじゃないですかね」
拓郎と岡本が同時に神田を見た。神田は普段、滅多に自分の意見を言わない堅物なベテラン職員だ。
「……どういう意味だ、神田」
「『熱海市主催』ではなく、『市民実行委員会主催』にするんです。市役所は後援という形をとって、市川をその『事務局派遣』として動かす。これなら市の直接的な予算投入は抑えられますし、万が一のリスクも回避できます。……まあ、市川が残業代も出ないようなドブ板営業を、全部一人で背負う覚悟があればの話ですがね」
神田はチラリと拓郎を見た。その目は「試すような光」を宿していた。
「やります」拓郎は即答した。「僕にやらせてください」
岡本はため息をつき、頭を抱えた。
「……はぁ。いいか市川、通常業務に支障を出したら即打ち切りだぞ。予算は『ゼロ』だ。市の名前を後援に貸すだけだぞ。分かったな?」
こうして、予算ゼロ、専任スタッフたった1人の「熱海国際映画祭実行委員会」が産声を上げた。
2
映画祭の準備を始めるにあたり、拓郎が最初に向かったのは、熱海の急な坂道を登りきった場所にある古民家カフェ兼ギャラリー「喫茶・月とキネマ」だった。
ここは、熱海銀座商店街の老舗温泉旅館「熱海富士屋ホテル」の若女将であり、地元の若手事業者のリーダー的存在でもある真壁彩花(29)が運営している場所だ。
「——断ります」
拓郎の説明を最後まで聞くことなく、アイスコーヒーをテーブルに置いた彩花は、にべもなく言い放った。
すっきりとまとめた黒髪に、凛とした和服姿。彼女の強い視線が拓郎を射抜く。
「ちょっと、彩花さん、話だけでも……」
「話は聞きました。市役所が得意の『思いつきイベント』でしょ? 商店街を巻き込んで、準備だけ手伝わせて、結局2〜3年で予算が尽きて立ち消えになる……今までそんな企画を何個見てきたと思ってるんですか?」
彩花の言葉には、厳しい現実が込められていた。
かつて熱海が観光客激減でどん底だった時期、東京の大学を卒業して街に戻ってきた彩花は、地元の若者たちと必死で街の再生に取り組んできた。リノベーションまちづくり、クラフト市、マルシェの開催。泥をすするような苦労をして、ようやく今の賑わいを取り戻したのだ。
「お役所の若い人が、ちょっとカッコいい『映画祭』なんてキーワードに飛びついただけで、私たちの日常をかき乱さないでください。熱海に必要なのは、一発花火の国際イベントじゃなくて、毎日地道にお客さんを迎える丁寧な接客と工夫なんです」
「一発花火で終わらせるつもりはありません!」
拓郎の声が熱を帯びた。
「僕も、この街で生まれ育ちました。温泉街がシャッター通りになっていくのも、大人たちが諦めた顔をしていくのも見てきました。山路さんは言ったんです。『熱海を、ただ消費されるだけの観光地から、カルチャーを生み出す街にしたい』って。彩花さんたちが作ってきたこの街の魅力を、世界中の人に映画を通じて知ってもらいたいんです!」
彩花は一瞬、目を丸くした。普段はおとなしく、事なかれ主義に見えていた拓郎の目の中に、尋常ではない炎を見たからだ。
「……山路のおじいちゃんが、そんなことを?」
彩花は小さく息を吐き、腕を組んだ。
「山路さんには、子供の頃映画館でジュースをご馳走になった恩があるの。あのおじいちゃんが本気なら、無下にはできないわね……」
彩花は卓上のカレンダーをパラパラとめくった。
「条件が3つあります。1つ、商店街の店舗に無理な協賛金を要求しないこと。2つ、ボランティアの若い子たちのケアは市役所が責任を持つこと。そして3つ……」
彩花は拓郎を指さした。
「市川さん、あなたが途中で投げ出さないこと。もし投げ出したら、市役所の前で打ち首ですからね」
「……了解です。絶対投げ出しません」
こうして、熱海の街を一番よく知る強力な味方——そして最強の批判者である彩花が、実行委員会の副委員長として加わった。
3
彩花が加わったことで、事態は加速し始めた。
彩花の呼びかけで、熱海を愛する一癖も二癖もある「最初の仲間たち」が集まってきた。
山路勝(74):実行委員長。元熱海キネマ館主。映画の知識と人脈、そして圧倒的な情熱を持つ長老。
市川拓郎(28):事務局長。市役所の雑用から交渉、書類作成まで全てをこなす超・実務担当。
真壁彩花(29):副委員長。地元商店街と旅館組合のパイプ役。現実的な視点から拓郎の暴走(と甘さ)を締める姉御肌。
佐々木健太(28):拓郎の市役所の同期。ITと広報担当。裏でコソコソ拓郎のSNS発信を手伝う広報オタク。
小野寺由佳(23):観光推進課の新人職員。拓郎の熱意にほだされ、業務外でボランティアの女子高生・大学生を取りまとめる「若者チーム」のリーダーに。
準備室として借り受けたのは、熱海銀座の路地裏にある、30年間放置されていた元・喫茶店の廃物件。
蜘蛛の巣を払い、ホコリまみれの床を拭き、DIYでペンキを塗り直す作業から彼らの映画祭は始まった。
ある夜、ペンキ塗りを終えた5人は、作業着のまま路地にパイプ椅子を並べ、缶ビールとラムネで乾杯した。
夜風が、潮の香りを運んでくる。
「ねえ、市川さん」
ペンキで頬を汚した由佳が、缶ビールを両手に抱えながら言った。
「本当に、こんな街の路地裏から、世界中の映画監督が来るような映画祭ができるんでしょうか?」
拓郎は、遠くに見える相模湾の暗い海を見つめた。
波の音が、規則正しく響いている。
「できるかどうかは、わからない」
拓郎は素直に言った。
「でも、カンヌだって最初は人口数万人の小さな港町だったんだ。熱海には海があって、坂道があって、温泉があって、美味しい魚があって……そして何より、この街を面白くしたいと思ってる僕たちがいる。映画祭が始まったら、この海に世界中の映画が映し出されるんだ。……考えただけで、ワクワクしないか?」
山路が満足そうに目を細め、ガハハと笑った。
「その意気だ、拓郎くん! 映画の神様はな、本気で楽しんでいる奴の味方をするんだよ」
彩花もまた、呆れたように笑いながら、自分の缶ビールを拓郎の缶にカチンとぶつけた。
「覚悟しなさいよ、市川さん。明日からは地獄の『会場探し』と『公募開始』なんだから」
街灯の明かりの下、小さな熱気の輪が広がっていた。
彼らはまだ知らなかった。この直後、彼らを待ち受けている「世界中の映画人からの冷ややかな無関心」と、「開催会場がどこにもない」という絶望的な現実を。




