第1話 坂の街と、無謀な夢
プロローグ
その日の熱海港は、いつにも増して青かった。
相模湾から吹き抜ける風が、海岸線に敷き詰められた深紅の絨毯を静かに揺らしている。かつて「昭和の社員旅行の街」と呼ばれ、一時はシャッター通りと化していた熱海の街。だが今、その港町には世界各国から集まった映画監督や俳優、そして何千人もの映画ファンがあふれていた。
潮の香りと、屋台から漂う焦がし醤油の匂い。波の音を打ち消すような万雷の拍手と、フラッシュの眩い光。
「……本当に、やっちゃいましたね。市川さん」
隣に立つ新人職員の由佳が、目元をぬぐいながら呟いた。
市川拓郎(28)は、紺のスーツの胸ポケットに挿したスタッフ証をそっと指で撫でた。あの日、たった一人のおじいさんが観光振興課のドアを叩いたときから、すべてが始まったのだ。
拓郎は、真っ青な海を見つめながら、2年前のあの「ありえない相談」の日のことを思い出していた。
1
熱海市役所、4階の観光振興課。
7月の午後の日差しが、古びたスチールデスクの上に斜めの光を落としていた。エアコンの効きは悪く、室内にはぬるい空気が停滞している。
「市川、また例の『熱海温泉まつり』のポスター修正依頼だ。旅館組合から『もっと芸妓さんの顔を大きくしろ』ってさ」
「了解です、課長。デザイナーさんに連絡してみます」
市川拓郎は、パソコンの画面から目を離さずに答えた。
熱海市役所に採用されて5年目。地元出身の拓郎にとって、熱海は「愛着はあるが、少し物足りない街」だった。
バブル期の栄華は遠い過去。最近でこそ若者向けのスイーツ店やオシャレなカフェが増え、V字回復と持て囃されてはいるものの、現場で働く拓郎たち行政の仕事は、相変わらず既存のイベントの穴埋めと、市民からのクレーム対応に追われる毎日だ。
「拓郎、なんか面白いイベント企画してよ。熱海をガラッと変えるようなやつさ」
隣の席の同期・佐々木が、コーヒーカップを片手に冗談めかして言った。
「言うのは簡単だけどな。予算は削られる一方だし、新しいことやろうとすると『前例がない』って上から潰されるのがオチだろ」
そんなやり取りをしていたときだった。
「すみません、観光振興課はこちらでしょうか……?」
かすれた、しかし芯のある声が課内に響いた。
入り口に立っていたのは、使い古された麦わら帽子を被り、大きな革のボストンバッグを抱えた小柄な老人だった。日焼けした顔に刻まれた深いシワが、海辺で生きてきた年月を物語っている。
「はい、観光振興課です。どのようなご用件でしょうか?」
拓郎が立ち上がり、カウンターへ向かった。それが、彼らの日常が大きく揺らぎ始めた瞬間だった。
2
老人の名は、山路勝。74歳。
かつて熱海銀座商店街で映画館「熱海キネマ」を営んでいた元館主だという。熱海キネマは20年前に閉館し、今はコインパーキングになっている。
打ち合わせスペースの丸椅子に腰掛けた山路は、ボストンバッグから大量の古いパンフレットや洋書の洋画雑誌を取り出した。どれも黄ばみ、角が擦り切れている。
「市川さん、と言ったね。単刀直入に言わせてもらうよ」
山路は拓郎の目をまっすぐに見つめた。
「熱海で、国際映画祭を開きたいんだ。フランスのカンヌみたいな、本物のやつをね」
「……はい?」
拓郎は思わず聞き返した。耳を疑った。
カンヌ? 国際映画祭? この、温泉と海鮮丼の街で?
「カンヌはね、もともと地中海に面した静かなリゾート地だったんだよ。それが映画祭を始めたことで、世界中からカルチャーが集まる最高峰の街になった。熱海も同じだ。海があり、山があり、美味しい食べ物があり、歴史ある温泉宿がある。海外の映画監督や俳優を招くには、これ以上のロケーションはないと思わないか?」
熱弁する山路の目は、子どものように輝いていた。
しかし、拓郎の頭の中では、現実的な計算機が猛スピードで弾き出されていた。
(カンヌ国際映画祭の予算って何十億円だ? そもそも熱海にそんな大きな映画館もない。海外からVIPを呼ぶ通訳は? スポンサーは? 市の予算は数百万単位のイベントですら難航するのに……)
「あの、山路さん。お気持ちはすごくよく分かるのですが……」
拓郎は、公務員特有の「角を立てないお断り」のフレーズを探し始めた。
「国際規模のイベントとなりますと、莫大な予算と数年単位の準備期間、そして専門の運営組織が必要になります。現在の熱海市の予算規模や人員配置では、正直なところ……」
「予算なら、俺の退職金と土地を売った金から500万出す!」
山路がドン、とテーブルを叩いた。周囲の職員たちが一斉にこちらを振り返る。
「お金の問題じゃないんです」と拓郎は苦笑した。「街全体の協力も要りますし、映画業界とのパイプもありません」
「パイプなら、ここにある」
山路は、胸ポケットから一枚の擦り切れた名刺を取り出した。そこには、日本映画界の巨匠であり、現在は海外の映画祭でも審査員を務める映画監督・黒木重雄の名前があった。
「昔、彼が駆け出しの頃、うちの映画館で自主映画を上映してやったんだ。黒木監督は『熱海で映画祭をやるなら、俺は全面協力する』と言ってくれている」
拓郎の息が止まった。黒木重雄といえば、世界三大映画祭で受賞歴もある生きる伝説だ。
「市川くん」
山路は静かな、しかし重みのある声で言った。
「熱海は昔、たくさんの映画やドラマの撮影地だった。銀幕のスターたちが温泉で羽を休めた街なんだよ。だけど今はどうだ? 若者が映えスポットで写真をとって、日帰りで帰っていく街になってしまった。……俺はな、もう一度この街に『文化の灯』を点したいんだ。熱海を、ただの観光地じゃなく、世界に誇れる『映画の街』にしたいんだよ」
山路の言葉は、熱海の湿った潮風に乗って、拓郎の胸の奥深くに突き刺さった。
日常の業務に忙殺され、「どうせ熱海はこんなものだ」とどこかで諦めていた自分の心に、小さな火がともるのを感じた。
「……山路さん」
拓郎は深呼吸をし、山路のまっすぐな眼差しを押し返した。
「上司に、企画書を出してみます。通るかどうかは……全く保証できませんが」
山路の顔に、くしゃりとシワが寄り、大きな笑みがこぼれた。
「ありがとう、市川くん。これで熱海の歴史が変わるぞ」
これが、後に「無謀すぎる熱海の奇跡」と呼ばれる物語の、小さくて静かな第一歩だった。




