85. 『慶史』
「あれっ、休憩ですか?」
「ああ、組手の前だし」
「でも、部外者と話して大丈夫なんですか。
というか、トオルさんが寂しそうにこっち見てますけど」
「それは知らん。
私は休みたい」
身体ではなく頭と気を休ませたいので、休まらない人間のところに行く気はない。
というかトオル。
休憩時間中も男女問わず囲まれ話しかけられてモテモテなくせして、和希一人別の人間のところに行ってるからといって、飼い主にほっとかれてる子犬のような目でこっちを見るのはやめてほしい。
「それで慶史は、試験見ててどうだった?
剣道の昇段試験とか思い出した?」
座って足の防具をつけながら和希は声をかけた。慶史と、下の名を呼んだ。
「当たり前ですが全然違いますね。
見ていて面白いです」
「このあともっと面白いのがあるよ。
二対一の組手」
「和希さんが好きそうですね」
笑顔を見せながら、慶史もまた、和希を下の名前で呼んだ。
ひょんなことから新橋に頼み込まれて和希の監視役としてサークルに入った今井慶史だが、それが発覚した後も、引き続きサークルに在席したいと言った。
先輩に無理に頼み込まれたせいで入ったなら辞めてもいいし、他に本当にやりたいことのできるサークルを探してもいいのではと繰り返し和希は言ったが、慶史は、大丈夫、と。
サークルは続けつつも、杖術が楽しくなったので、大学の外で習っているそうだ。
和希は和希で、辞めずに続けており、引き続き2人は先輩後輩でいる。
しいて関係が変化したところをあげれば、下の名前で呼ぶことにしたことぐらいだろう。
慶史はバリバリのコミュニケーション強者とは程遠いが、付き合いさえ重ねれば、自然と相手と距離が縮むタイプの人間だ。人と積み重ねたものも簡単には風化しない。
一方、和希はそうではない。
ここからせーので関係性を変えると宣言しないと相手との距離を詰められない人間で、その『せーの』をしなければ、積み重なったものも風化し上書きされ、距離もあいてしまう。相手がどんな大切な人であっても。どんな恩人であっても。
慶史に対して、そうなってしまうのは嫌だった。
だから、自分で決めて、『慶史』と呼び始めることにした。
『慶史』と呼び始めたら、後輩は面白がって、『和希さん』と呼ぶようになった。それでいまに至る。
奇しくも空耳で聞いたのと同じだが、『和希さん』と呼ばれる響きは嫌いじゃない。
さて。
カポリ、と、相棒のマウスピースを口にいれると、和希はテコンドー用の小さめのグローブを片方、手につける。
つけたところで慶史が手を差しのべた。
もう片方の手にグローブをかぶせて慶史に差し出すと、最早慣れた手つきでバンドを固定してくれる。
「ありがと」
両手両足に防具がそろったところで、和希は床でストレッチを始めた。
伸びる伸びる。4月5月とは身体の質がまるで違うのがわかる。思う通りに身体が動くって、ありがたくて素晴らしい。早く動きたい。
やがて、中心となる試験官の師範から、和希に召集がかかった。
まずは一対一の組手である。
相手は、大学生の黒帯男子。
本当なら、試験の組手の際も、体格の近い同性が相手をするのが理想なのだが、和希の場合、体格体重で合わせると基本的に男子相手になることが多い。
ちょっとこちらの様子を見がちな動きをしているので、横蹴りと回転後ろ蹴り、直線系の蹴りでガンガン容赦なく突き放す。
「っ!ぐぅっ……ううっ」
弱いとは思わないが、和希が先手をとったことが大きかった。その後終了の号令がかかるまで、終始、圧倒することができた。
次はまた一対一か、と思いきや、続けて、二対一の組手。
ベテランの黒帯2人が相手となった。
1人は60キロ台前半の男子、もう1人は、数少ない、和希より身体が大きい女子。
2人はセオリー通り、和希を挟みうちにしてこようとする。それをくぐり抜け翻弄する楽しさは二対一組手ならではのものだ。
(せっかく、相手が2人いるし……)
ためしに、女子の黒帯の身体を足掛かりに蹴り跳んで、男子側の顔に突きを叩き込んでみる。
「おわっあぁっ……」
思いの外パワーがあったせいか男子の黒帯が大きく体勢を崩したところを、そのまま前蹴りで場外に蹴りだした。それでもって、和希に蹴られてふらつきながらも何とか背後に迫っていた女子黒帯には、鋭くバックブロー。そして180度回りながらだめ押しの跳び回し蹴り。
「つよっ…」
観衆の呟きがきこえるほどに余裕があった。
体重は増えてはいないが、この半年、世界レベルの脳筋の鍛練に付き合わされてきた。
その鍛練と、毎回毎回ズタボロになった練習後の回復にあらゆる工夫や試行錯誤をしてきた努力のおかげで、少なくとも筋力はそこそこ強くなったと思う。
「やめ!」終了の号令が響く。
礼をし、退出。
相手の2人は場外に出たとたんへたりこんでしまったが、和希は正直、物足りないぐらいだ。
さて。
残る組手はあと一回。一対一組手、である。
二対一組手ではなく、一対一をラストに持ってくる意味が少し気になる。だとすると相手は。
「よし、じゃあ次は―――――」
考えながら和希が床でストレッチをし始めたその時、次の相手を告げる声がかかった。
「牧ノ瀬トオルくんで」
予想通りだった。




