73. 君の声
警察のサイレンの音。
と言っても、距離と時間を考えると、今井慶史がいた下鴨警察署の人員や車両ではないだろう。
連絡を受けた、下京警察署か、七条交番からか、と和希は踏んだ。
いずれであっても、もうビルには入らず、警察が自分を見つけるのを待っていればいい。
念のため、黒いワゴン車の反対側にいるようにしよう……。
そう和希がビルに背中を向けた瞬間。
「んッ!?」
右の太ももの裏に衝撃を感じた。
蹴りとは全く異質の、焼き焦がすような熱さと、これまでにない痛みで大腿全体を侵食し始めた。
………これは。
左足で懸命に跳ね、黒いワゴン車の反対側に身を隠す。
尻を捻りながら熱のもとを目視で確認する。右太ももの裏のジーンズ生地が大きくえぐれて肉が露出し、みるみる血が溢れ出している。
撃たれた?
和希は、痛みをこらえつつ右足を動かしてみる。動く。
肉を削られただけ。腱は切れずに済んだ、動脈にも達していない…か。
とはいえ、じわじわと血が流れていく。痛みは我慢しても、右太ももの筋肉が物理的に一部断ち切られてしまったのは、事実。
(マジか)
まずい、と言わざるを得ない。
この期に及んで、銃? というか、本山、どういうルートで拳銃なんて。
一体何を企んでいた?
「ミサナ」
思案に入りかけた和希の耳に、女の声。
ついさっき聞いたばかりの、二度と聞きたくなかった声が。
「お母さん、ちゃんとお話ししたいのよ」
和希の脳を舐めるように届く声。気配。衣擦れ、微かな足音。
車の向こうにいる。
先ほど和希に平手を食らわされたはずの女が。
「……誰に、何を、言われたの? 話せば、わかるはずよ? お母さんが、誰よりミサナのことを愛してるっていうことを」
轟音。
和希が身を隠しているワゴン車に、二発目の弾丸が撃ち込まれた、ようだ。
信じたくないが、あの女が、銃をぶっぱなしているのらしい。
様子がわからない。拳銃なのか、大きな銃なのか。
足元が気になる。車体の下からもし撃たれたら? 何も遮るものがないのに。
「そうそう。そうよ。そのままそこにいて?」
轟音がもう一発。
「動かないで。もうすぐ、みんな来るから。ミサナを迎えに来るから」
(…………っ………)
くるしい。
また脳を襲う苦痛。バッ、と頭を両手で抱える。
脳がくるしい。ぐらんぐらん、和希の周りの世界が揺れている。
敵が来るのに。逃げないとなのに。いやもう警察がもうすぐ来るのに。もう勝ったはずなのに。
頭が。頭が。こんなときに、ゆうことを聞かない。
痛いのは耐えられる。体が傷つくのも。もとより死ぬことも殺されることも、どうでもいい。そんなことじゃない。
何をされるとしても、それが『あの女に』っていうことが、嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。死にたい消えたいこの世ごと。死んでしまえ消えてしまえ壊れてしまえ滅びてしまえ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい
――――――――……さん
微かに。
かすかに。聞き覚えのある希望が聞こえた気がした。
――――――さ……さん、ん…うさん
「―――――――――――――かずきさん!」
はっ、と顔を上げた。
路地に入ってくる、一台の車。
ワゴン車を挟んで和希と反対側にいた女の姿が、目をこらして、ようやく濃い色のガラス越しに確認できる。
女の手にあるのは、3Dプリンターで作ったようないびつな形の拳銃。
その拳銃が、見えない何かによって弾き飛ばされた。
(……………弾丸?)
それも、銃だけを見事に弾き飛ばす。
プロが撃ったものだと素人目にも分かった。
間もなく、銃を撃ったらしい人物が姿を現した。
「覇華さん!」
牧ノ瀬覇華だ。
和希の方には目もくれず、さらにはミサナミサナとわめき続ける女も軽く当て落としただけで目もくれず、ビルからわらわらと出てきた、残党たちに向かっていった。
「牧ノ瀬巡査部長! 被疑者たちに怪我させるなよ!!」
野太い声が飛ぶ。
覇華の後から後から、警官らしき人物が、ビルから湧き出る残党たちを押し戻すように詰めかけていった。
気づいた。
気管支の辺りがものすごく痛くて息苦しい。
頭がまだ回らない。
騒音を耳が拾えない。
なぜかしゃがんでしまった。
足に力がはいらない。なぜ?
「大丈夫ですか、三条さん!!」
――――――そんな耳元で大きな声出さないで、頭に響く。
そんな声をかけられるまで、すぐ近くに来ていたと気づけなかった私が悪いけれど。
「どうしたんですか!? 足、すごい血がでてるじゃないですか。大丈夫ですか、見せてください……」
そうだった。さっき、足撃たれたんだった。
あの状態になると、ほんと、いやになるぐらいポンコツ化する。
それにしても、君が駆けつけるほどの時間が、経過していたのか。
足を触られても拒否感が出ない。
それよりも和希は、地面に膝をつけて今にも泣きそうな顔で自分を心配するメガネの後輩の顔が近くで見たかった。
今井慶史。
おろおろとする彼の頭に思わず手を伸ばし、その顔を包み込む。
「――――――三条さん?」
「痛い、足」
そう、和希が言うと、「当たり前ですよ!」となぜか怒られた。
理不尽だなと思いながら彼の両肩に触れる。
さっき、慶史の声で「和希さん」と呼ばれた気がした。
慶史が自分のところに着くまでの時間を考えても、苦しいさなかの自分の脳が見せた錯覚でしかない。
だけど、錯覚であれ、あの声が和希を呼び戻した。<三条和希>に戻した。
「すぐ手当てしてもらいましょう、立てますか?」
「肩、貸してくれる?」
返事の代わりに、慶史は身を沈め、和希のわきの下に肩を通すと、和希の体を支えながら立ち上がった。
◇◇◇




