68. 殺気
「………え…………」
よかった、なんとか、全力の10分の1以下に抑えられた。
それでも痛かったのか、女ははたかれた方の頬を押さえ、その大きな瞳にみるみる涙が満ちてくる。
「ミサナ、なん……」
反対側をまた掌でひっぱたく。
今度は少し強くなってしまったかもしれない。いけない。調整を。
手にファンデーションが付いた感触。
拳はもちろん、平手でもたぶん30%も力を出してしまえばKOしてしまいそうだから、ギリギリまで力を弱めながら、それでも速さは遠慮なく。
再び、最初の側を平手打ちする。
(……………………?)
ひっぱたくたび、詰まっていた血がめぐるような感覚で、和希の心臓がちょっとずつ、楽になる。
絡みついた毒がはがれてくれる感じ、でも、一方で違う痛みが広がっていくような。
交互に、もう1回、ビンタ。
「いたぁ……い…」
女は悲鳴をあげた。
「いやぁ……」
とうとう連続ビンタに耐えられなくなったのか。ワンピースの裾を翻し、女は階段を駆け下りて逃げる。会うのを切望していたはずの娘から逃げていく。
その後ろ姿を、和希は追えなかった。
足に根が生えたように動けなくなっていたことにそのとき気づいて、恐る恐る、足を動かしてみる。
大丈夫、もう動く。
彼女は覚えていただろうか?
きっと覚えていないだろう。
撮影所に行くのを嫌がる娘にフルスイングの平手を何度も往復でかましたことなどは。
そのあと本山に、顔にけがをさせないで下さいと叱られて、それからは足をつねったりおなかを叩くようになったことも。
大人と子供の体格差の残酷さを体感させるなら、きっと和希のフルスイングビンタを味わわせるのがよいのだろうけど。
それは本当の決着じゃない。
(………………それより、今井くん、だ)
三条和希という壊れた人間のことなど、今はどうでもいいのだ。
なぜ、いまここに和希を産んだ女がいたかも些末なことだ。
大事なのは今井慶史の安否である。
追わなくては。
地下室のなかに入らなくては。
爆発物のように不安定な状態の自分を、二本の足で慎重に運びながら、和希はそろそろと階段を降りた。
いうことをきかない頭で考える。
三条和希が脅威であるということが敵方に認識されているならば、和希を産んだ女もまた、いざというときに和希に言うことを聞かせるための人質として呼ばれた可能性が高い(本山はただ娘に会わせてやろうという言い方をしたようだが)。
その『母親』が和希にビンタされて泣きながら地下室に戻ってきた。となると……。
敵はいま知っただろう。人質としての価値があるのは、今井慶史だけだと。
ならば、和希が拘束されない限り今井慶史は殺せない。しかし一方で、和希に言うことを聞かせるために傷つけられる可能性がある。
いまの状態の和希の体と脳には、今井慶史を傷つけさせないためにいうことをきく、という選択をさせることが不可能だ。
だけどそれを敵は知らない。
どうしたらいいのかまるでわからない。
けど。進まざるを得ない。
地下室の方がざわざわするのがうっすら聞こえる。
そろそろと。一歩一歩階段を降りて。
ふと、さっきの携帯が、目についた。
ここまで運転してきた男が尻ポケットに入れていて、さっき和希が女に投げつけて階段の踊り場に落ちたものだ。
(そういえば、あの男、妙に気にしてたな、この携帯を)
和希は慎重にスマホを拾い上げる。画面は一部割れていたが動作はどうだろうか。
さっきも確認したが、このスマホは慶史のものとは似ても似つかない。そして、誰かからひっきりなしに電話がかかっていた。古く、裏側に何かシールがはってあったものを無理やり剥がしたらしいベタベタが残っていた。
ああ、そうか。
パッと、脳の一部が清んで働き始める。今井慶史について、さっきの男はこう言っていた。ここにいれば本山が今井慶史をつれてくるのだと。
ならば本山からの連絡……と考えるべきかと思うところだが、あの男は電話にも出ず、留守電が流れ始めたらこの携帯電話の電源を落とした。
電話に出ても、留守電が流れても、和希に聞かれると都合の悪い情報……?
みるみる頭が晴れていく。
手に取り、電源を入れる。暫しの時間待ち、そしてスマホは起動した。
何度も残る、電話番号の着信。携帯電話ではない、京都の市外局番。
その番号からまたもや電話がかかってきた。和希はその電話を受ける。
「…………はい」
『――――――――――――三条さんですか?』
ほっと胸に、あたたかいものが広がった。と同時に、本当に良かったという思いがこみあげてくる。
…………今井慶史の声だ。
『大丈夫ですか? いま、どこですか?』
「七条、たぶん河原町の付近……えっと、君は?」
『色々あって、いま下鴨警察署です。あの、本山も一緒に捕まってて……』
「も、ってなんだよ、も、って」
そんな些細なことさえ突っ込みたくなるほど嬉しくて。
「……そうか、なるほど、君を騙って紛失とか盗難とか言って、携帯ショップから代替機を手に入れたのか」
『―――――三条さん、エスパーですか?』
「いや、どうせならもっと早くその可能性に気づきたかった」
脳内に橋から蹴り落とした面々のことが蘇る。
きっと大けがをさせた。
死人も出ているかもしれない。
和希自身の傷害の罪が重くなったのは確かだろう。
いくら和希に危害をくわえようとした面々とはいえ、まさかあれで正当防衛は成立しないはずだ。
それでも、今井慶史が生きていて安全であることには代えがたい。
「わかった。君が安全ならここに用はない。すぐに下鴨署にいくよ」
『気を付けてください、あの……』
なにかしら慶史が補足しようとしている。聞き取りにくい音声に集中しようとしたとき、ふと。
(殺気)
とっさにガードしに横にあげた足に、後ろから蹴りつける何者かの蹴りが引っ掛かった。




