67. 対峙
「きゃっ……」
女の悲鳴。コントロールのきかない和希の手から飛んだ携帯電話は大暴投となり、階段の下へと落ちて派手な音を立てた。
「な、なぁに? どうしたの?ミサナ……」
その女は小首をかしげた。
(!!!!)
既に、大きくて爆発的な感情が和希の頭のなかを巡りはじめて、頭が言うことをきかない。
脳のほんのわずか、和希の自由になる一部で、必死に、和希は目の前の華奢な女の姿を捉えた。
少女のように若く、40過ぎにはとても見えない。
記憶にあるより遥かに小さいのは、和希が8年前から20cm以上背が伸びたからだろう。
でも、華のあるアイドルのようなこの美しい顔は、確かに和希を産んだ女だ。
間違いない。
もう顔は覚えていないと思ったのに、こんなに確信できるなんて。
そういえば、あの場所に連れていかれる前、うちのおかあさんはきっと世界で一番美人なんだろうと思っていた。
優しくて、大好きで、自慢だった。
(…………クソ)
そんな昔の自分ごと殺したい。今にも飛びかかって絞め殺したくなる両手と、衝動と闘う。
「久しぶりねぇ。本当に久しぶりだわ……」
それを知ってか知らずか、かつて母親だった女は美しい微笑みを見せる。
「会いたかったわ。ずっと……。誰に言っても会わせてくれないから。捜したのよ、自分でも。ずっとずっと」
(そうだね……会いたかったのは嘘じゃないんだろう)
和希の頭の冷静な部分は、そこだけは受け止める。
何故なら、この母親だった女は、彼女のなかでは誰より深く自分の娘を愛していた。人と違う形で。
何せ――――あのときから今のいままで、芸名の『ミサナ』と呼び続けているのだから。
――――ミサナ。あのねぇ、ミサナのいままでの名前は本当の名前じゃないの。だっておかあさんがつけた名前じゃないから。
――――いままでの名前はねぇ。おじいちゃんとおばあちゃんが勝手につけちゃったの。姓名判断とか、家の伝統とかで。おかあさんもいっぱい、いっぱい候補を考えてたのに。
――――ミサナって名前は、今度こそおかあさんがつけたから本当の名前よ。いっぱいいっぱい考えて決めたのよ。だからこれからあなたはミサナなの……。
彼女は悲し気な顔になる。
その表情は、まるでスポットライトを浴びた舞台女優のようだ。
「許せなかったわ、あんな連れ去り。血のつながった親から引き離して会わせないなんて、完全な誘拐じゃない。誰に言っても聞いてくれない。おとうさんもおかあさんも、ずっと悔しい思いをしてきたわ……」
そう言うと、彼女はまた微笑んだ。
「本山さんからの連絡があったとき、神の助けだと思ったわ。誰も助けてくれない、このチャンスを逃したら、ミサナに一生会えないかもしれない。そう思ったから……」
と……そこで。
今度は突然肩をふるわせはじめて。嗚咽とともに、女は涙をこぼしはじめた。
「本山さんからね? 色々教えてもらったの。
ミサナが、すごく背が伸びて綺麗な女の子になってることとか、勉強がんばってることとか、スポーツで活躍してることとか……
嬉しかったわ。嬉しかったけど、いままでで一番悔しかった。どうして? どうしてミサナが成長しているその場におとうさんおかあさんは居合わせることができなかったの? どうして、一瞬一瞬のミサナを見ることができなかったの? って……」
本気で思って、それを言っているのだとは思う。
ただ、彼女は彼女の国に住んでいる、ずっと。あの頃から。
彼女の見えるように世界を語るのだ。
それに乗ってしまうと………。
もやもやと和希の胸のあたりに毒のようなものがたまっていく。その毒に、からだの精気をぐいぐいと吸われていく。
頭はまだ冷静じゃなくて、相変わらず自分のコントロールがきかない状態だというのに。
このままじゃ倒れてしまいそうだ。。。比喩ではなく。
「いてもたってもいられなくなって、おとうさんもおかあさんも、京都についてきたのよ。
それでミサナに会えたの……もう。胸がいっぱいよ……」
――――――無理だ。
何かがパンと頭のなかで弾ける。
これ以上は無理だ、と、頭が、心臓が、体が言っている。
和希はつかつかつかつかと女に近寄っていった。
ハグしてあげようとでも思ったのか両手を大きく広げて和希を迎える形を作った女。
和希はその頬を、平手でビンタした。




