57. 大事な後輩
◇◇◇
出町柳と丸太町の間にある、鴨川にかかる小さな橋。
その上から和希は、サークルの練習場所の一つである河川敷の芝生を眺めていた。
浅く、割と澄んだ流れで、橋の上からも魚の存在が見える鴨川。
夕暮れ時、一組や二組、カップルが語らっていてもおかしくない時間なのだが、今日は一人もいなかった。
(最初に…サークルの練習に見学に来た時もここだったっけ)
誰ともなかなか話す機会がなく、次は来なくてよいかと思った帰りがけに、桜井信彦が話しかけてくれた。
何の話をしてくれたのか、その時は特に意識していなかったせいで覚えていない。
それがとても残念だ。
────ハナ(ひい)、トゥル(ふう)、セッ(みい)、ネッ(よ)……
練習の前後。
桜井が、慣れないテコンドー式の数え方で一生懸命数えながら、しゃもじ型のキックミットを持って、和希の蹴りを受けてくれた。
和希は和希で、そのミットを蹴るのにどれぐらいの力を出していいものか迷いながら、おっかなびっくりでそれを蹴っていた。
思い返してみれば、この場所にはたくさん思い出がある。
────自首をする。
そう決めて、そう、今井慶史に話をしたのは、本山を倒した次の朝。
帰る始発の電車の中だった。
『三条はいま、どうしたい?』
『一番、何がしたい? 何をすべきか、じゃなくて、何がしたい?』
あの月光の中、トオルは和希にそう尋ねた。
その時彼はたぶん、こういう答えを希望していたんだろう。
『もっとテコンドーをしたい』とか。
『普通に学生生活を送りたい』とか。
『後輩や、友達を守りたい』とか。
『恋愛をしたい』とか、『結婚したい』とか。
和希はトオルに望みを言えなかった。
その時浮かんだ和希の一番の望みは、残念ながらこうだった。
『9歳のあの日の両親を、殺したい』
そうして、戻れるならあの日に戻って、普通の人生をやり直したい。
命がけで自分に付き合ってくれた後輩への感謝や守りたいという思いでも。
今まで自分を守ってくれた周囲の大切な人たちのことでさえなく。
残念な和希の本能が真っ先に望んだのは、自分のことだった。
体と戦闘能力ばかりが成長して。
まだ、この先を望み、人間らしい人生を歩んで幸せになりたい、人を幸せにしたいと思うところまで、心が回復して成熟してはいないのだろう。
……奪われた魂は、まだまだ取り戻せていない。
心の中で、そんな自分にため息をつかざるを得なかった。
タイムマシンは、まだこの世に存在しない。
ならば、次善の策としてどうするべきか?
自分と同じ目に遭うこどもを一人でも減らす?
そのために、狩り続ける?
否。
少なくとも、知人にマークされている状態で今までのように続けるのは不可能である。
ならば。
答えはひとつだろう。
『自分の代わりに、警察に、性犯罪者を狩らせたい』
それが和希が出した結論で。
そのためには自分が性犯罪者狩りであることを自首したうえで、いま握っている性犯罪者の情報を警察に渡さねばならない。
もとより、和希は、拘束され自由がない警察や刑務所の中では、身を守ることはできないと考えていたが、それも織り込み済みである。
自分の身より、一刻も早く性犯罪者を狩る方が大切だと。
慶史は、電車の中で和希が自分の考えを話している間、黙って頷いていた。
話し終えたとき、出頭をする時には、一緒に行くと言ってくれた。
―――自首をすると決めてから。
まずは、WEB上で、情報提供者たちに話をした。
彼らはそもそも警察を信用できないとして、和希に情報を集約した者たちである。
当然、反対をする者はやはりいた。
だが、意外にも、和希の決断ならばと受け入れる者が多く、その者たちが反対する者を説得して最終的にはすべての賛同を取り付けることができた…。
確かに。
性犯罪者たちを実際に狩ることができたのは和希だけである。
その和希が不可能になったなら、少しでも早い対処が可能な警察に託すのがベターである。
ただし、彼らは条件を決めた。
期限を決め、それまでに警察がすべての性犯罪者を捜査し何らかの成果を出さなければ、新たに、性犯罪者たちを狩る者を選び、再び性犯罪者狩りを始めると。
よって、和希と彼らは、警察に公開する情報と隠す情報を選り分けた。
今、和希の首にぶら下がっているのは、生協の購買で買った、新たなUSBメモリだ。
警察に公開して良い情報のみを、その中に入れている。
一部、こどもを守るための正当防衛を主張できそうなものもあるが、それでも数多くの傷害罪。
裁判がどれぐらいかかるかも、何年の刑期になるかもわからない。
永遠の別れと決まったわけではないけれど、少しでも思い残すことのないよう。
和希は、あちこちの場所を回り、人に会った。桜井以外の人に。
感情が凍り付いたような冷たい奴だと、自分のことを思っていたけれど。
自分の足で歩くと、ぶわっと思い出が、あとからあとからあふれてくる。
迷惑をかけたこと。これから迷惑をかけてしまうこと。悲しませてしまうこと。
たくさんの感情が、胸のあたりにどんどん溜まって、せつなくて、痛い。
泣けたらなぁ、涙で流してしまえたらなぁと、そう、何度思ったか。
でも、それも今日で終わりか。慶史と一緒に、今日、自首する約束だ。
もう、下鴨警察署に向かわなくては。
約束の時間に、遅れるわけにはいかないから。
未練がましい気持ちを断つように、和希が踵を返し、橋の上を歩き出そうとした。
その時。
(――――――?)
携帯の着信。
見覚えのある番号。――――慶史の、だ。
何かあったのか。胸がざわざわする。
思わず和希は、その電話をとり。
『――――中島、ミサナちゃん』
聞き覚えのない声に、眉をひそめた。
確かに慶史の番号だった。なのに慶史のものじゃない、不快な、ねばりつくような声。
一体、お前は誰だと言おうとした、その時。
『大事な後輩、預かってるよ?』




