56. 人を壊すコスト
下手な型を続け、あと、意外に何度も何度も、組手を申し込まれて。
気づけば、3時に練習が終わるはずが、随分と時間が過ぎていた。
急いで着替えて道場の外に出ると、練習終わりの時間に約束していた後輩の今井慶史が、電柱のかげに隠れるように待っていた。
背中に長い筒型ケースを斜め掛けにしている。
「ごめん、待たせた」
謝ると、慶史は軽く微笑んだ。
二人、そのまま歩き出す。
「長かったですね。
久しぶりの道場で結構スパーリングを挑まれたりしたんじゃないですか?」
「君はエスパーか?」
「あ、やっぱり。
恐怖心はないけど自分より強いっていう人がいると、みんな挑みたくなるんですよ。きっと。
俺自身がよく、妹から何度も試合を挑まれたりしたので…」
「え、組手で?」
「剣道でです。
でも剣道始める前も、なんだかんだで勝負を挑んで来られましたけどね。相撲とか。
自分よりちょっと大きいものが同じ家の中にいるって、何か心をくすぐられて挑みたくなるものなんですかね。
3つも離れてるのに」
「どうだろ。
単純に、『世界最強』になりたいのは男だけじゃないってことじゃないの?」
「どうでしょう?
俺は『世界最強』に憧れたことがないので……。
ところで、このまま向かいます?
少し休んでからでも」
「休む必要はないけど――――少し、行っておきたい場所はあるかなぁ」
「でしたら……」
その時、和希の携帯の音が鳴った。
スマホを取り出し、ながめる和希。
「どうしました?」
「―――メール。ちょっとこの間、関わりがあった人から」
ついこの間。
サークルでの準強姦を告発し和希に助けを求めた、例の男子からのメールだった。
「……罪悪感でメンタルをやられて。
通院を始めた、って」
「はぁ……加害者側の人っていうことですか?」
「まぁ。そうだね」
和希は、彼の被害者となった女たちには会っていない。
ただただ、願わくば与えられた傷が少しでも癒えるものであるように、と祈るしかない。
もちろん、人間にはいろいろな人間がいるから。
あのサークルの加害者サイドに加担した例の女子学生のように、刺激的な性体験をしたという解釈をするケースだってゼロではない。
ゼロではないが……そのような解釈が普通だと蔓延し彼らのような男子たちに刷り込まれ、今なお、唾棄すべき事件が起こり続けている。
――――――そして、多くの被害者は、見えない大きなコストを払い続けている。
和希は、あえて、ここで『コスト』という言葉を使った方が良い人々がいる、と思う。
単純に言うと、心の傷だとかがわからず甘えるなとか自己責任とかそういう言葉が好きな人々。性的被害を「減るもんじゃなし」と言う人々。虐待や暴力を軽視する人。
被害者の言葉を聞こうとしない彼らに伝えるには、もはや、『コスト』という言葉しかないのではないだろうか?と。
ヒト・モノ・カネ・時間、の資源の数値で見せるしか。
『人ひとり壊すと、高くつきますよ』
そう、和希は先ほど青帯に言った。
なぜ安易に人は人を壊すのか?
他人を壊し、自分を壊すのか。
そして自分を大切にするということに罪悪感を抱くのか。
その理由のひとつとして…。
人ひとりが心身を壊されたときの、そのコストが可視化されていないからではないだろうか。
ファルス本山とかつての和希の両親たちのせいで、これまで8年間、和希が身を守りながら生きていくのに、和希と和希の周りの人々は、一体どれだけのコストを払ったか。
精神の症状と、身体の症状。
カウンセリング、薬代。
和希自身の苦しみ、頑張ろうと踏ん張りたいときに症状に足を引っ張られるもどかしさ。
たとえば何もない人が16時間頑張れるところを、10時間しか、あるいは数時間も頑張れない。やりたいことも、自分の体に邪魔されて踏ん張れない。そんな苦しさ。
周囲の人々のケアの大変さ。悩み。苦しみ。
家を変え、学校を変え、名前を変え、少し友達になってくれた子さえも、何度も切り……。
お金も時間も精神力も。
和希自身も、和希の周囲も、支払い続けてきた、高い高いコスト。
そしてきっとこれからも払い続けるのだろうコスト。
もしもそれをすべて可視化するすべがあったら。
それをすべてファルス本山たちとかつての和希の両親たちに支払わせ続けることが出来たとしたら。
反省までは期待していない。――――――きっと彼らは、ほとほとうんざりして、二度と加害をしよう等とはきっと思わないだろう。
……それが叶うことなど、永遠にないのはわかっているけれど。
「あの……それで。
行きたいところがあるって」
「そうだね。
見ておきたい……ぐらいだけど」
「じゃあ、あとで待ち合わせますか?
6時ごろに……」
「そうだね、じゃあ、現地集合で―――――」
慶史は、穏やかに頷いた。「そうですね。6時に、下鴨警察署の前で」
◇◇◇




