55. 三条和希の格闘技論
◇◇◇
――――――ゴールデンウィーク明けの日曜日。
京阪三条駅からほど近い、ITFテコンドーの道場は、どこか抑えきれないざわめきに満ちていた。
原因は道場の端にいた。
鏡を占領しながら一人で下手くそな型を練習する、三条和希だ。
和希の息の音、本当は合わせなければいけないのにわずかにずれてしまう着地の足音が、道場に響く。
ただいま自由練習の時間なので、周囲の者たちも思い思いの練習をしており、和希には特に話しかけることをしない。
しないが…背中に感じる好奇の視線には、ちょっと気が散った。
型をつづけながら、時折離脱して、一つ一つの突きや受けの形を何度も確認したりする。
型としては下手だと言われ続けたけど、例の大会の主催者からは褒められた突きを時折やってみる。
(本山の頭蹴りあげて揺らした時は、ダウンとインパクトがうまくぴったり合ったんだけどな……)
直感でぴったりタイミングを合わせることが出来たりするのに。
考えるとなにかずれてしまう。
(昔は―――テコンドーを始めたての頃は)
教わる一つ一つに、例えばテコの原理だとか人の筋肉の伸び縮みとか回転のエネルギーとか摩擦とか、理科の知識一つ一つを見つけて、それを毎回の練習の楽しみにしていた。
一生懸命練習している最中は、頭に始終とりついている幽霊のような過去の影も忘れられた。
強い強いと周囲に言われるようになってからは、アレができていないコレが下手だと周囲に言われるのが、苦痛になってしまった。
単純に型が下手くそなのは、結局練習不足で正しい動きを体に叩きこめていないのが原因だから、本当は余計なことを考えず、ただただ練習するのが良いのに。
考えるとしたら、ただただ上達のためのことを。自分の技術についてのネガティブな感情面はシャットアウトなり別のところで発散するなり工夫をする。
上達について考えたうえで、しっかり時間を使う。
そして根性論ではなく、時間の捻出とメンタルのケア、集中力の維持のために頭を使う。
格闘技において頭が良いとはおそらくそういう人で、多分、牧ノ瀬覇華も、トオルも、それが出来ている人なのだ。
蹴り技の印象が強いテコンドーだが、その理論の基本となるのは、『サインウェーブ』と呼ばれる動きである。
テコンドーの創始者チェ・ホンヒは小柄な男性だった。
その彼が、攻撃の威力を増幅させるために編み出したのが重力を利用するという考え方だ。
攻撃の瞬間、軸足の重心を落とす、その力を攻撃の威力に変換する。
ニュートラルな状態から、ダウン→反動でアップ→ダウン、というその最後のダウンに、吐く息、足の着地、打撃のインパクト、すべてを合わせ威力を増幅する……
……はずであるが。
(地面への着地の力って、多分、着地による地面からの反発の力も含めてっていうことだよなぁ…。
しかしその力を体を伝って伝達させるイメージで考えるなら、インパクトの瞬間はわずかに後にずらしたくなる。
そこを、そうじゃなくぴったり合わせるのはどういう……)
とか、そんな、ごくごく基本的なことをこまごま考えながら。
どんどん時間が過ぎていく。
集中しているわけでもない。むしろとりとめのない行き当たりばったりな思考だらけの時間。
おそらく、普段だったら無駄と思っていただろうその時間を、無駄とは思わず。
……やはり型は、大学体育館の地下などでもう少し練習をしてから、道場に来た方が良かったか。
という気持ちにもなったり。
ただ、他の者から笑われたり何か思われたりすることに削られ、下手さをさらけだせないことが、結局己に克てないということだろう。
ちなみに、いわゆる『テコンドー精神』=礼儀・廉恥・忍耐・克己・百折不屈の中での『克己』は自制の意味合いで解釈されているので、こちらにのっとるとむしろ『忍耐』のほうか。
――――――というか。
結局、在籍していて月謝さえ払っているなら、下手でも練習に来る権利はあるのだ。
それに尽きる。
下手だろうが、排除される理由はないのだ。
「――――三条さん?」
後ろから声をかけられる。
振り向いたら相手が会釈した。
ここ何か月も一言も会話をしていない、同じ道場の青帯(赤帯の下)の社会人の男だ。
和希と同じぐらいの背丈で、たぶん体重は65kg前後。
「組手、お願いしていいですか?」
和希は頷いた。
和希より10歳以上年上のはずだが、和希の方が帯上なので敬語を使っている。
1分間のごく軽いスパー、ということで、和希は口にマウスピースを放り込み、防具を手足に着け、タイマーをセットしてスタートした。
(………?)
以前にスパーをしたときは、和希に対しておっかなびっくりで手も足も出なかった青帯だったが…
何か心境の変化があったのだろう、今度は強引に入ってくるように距離を詰める。
そして、体格の差を意識したような圧力と、強引なパンチ。
(確かに、圧力で距離つぶすのは正しいけど……)
もちろん、自分から自分から動いて押して負けないというのはあらゆる格闘技・武道の基本である。だが。
容赦なく和希は前蹴りでストッピングする。
続けて、相手はゴリゴリとパンチの連打。
和希の手は普通の女並みのふとさで筋力的には男に劣るが、グローブの体積に助けられて回し受ける。
その合間に、相手の顔面に、パ、パンとカウンターを入れる。
(……でも近すぎるな)
足を入れ替えざまの回転後ろ蹴りで相手の体を支点に自分の体を突き放す。
「ぐ……」
そこまで深くではないが腹にかかとを蹴りこまれ、足を止める相手。
和希にとってちょうどいい距離だ。
ちょうどいいので跳び回し蹴りから蹴り足を地面につけてからの跳び後ろ回し蹴りを試してみた。
「が………」
相手の声。
しまった、と、着地する前に思った。
防具越しにゴリっと、足に手ごたえがありすぎた。
そのまま和希のかかとになぎ倒される形で彼は地面に倒されたのだ……。
「あ………」
落ちた彼が声を発した。
よかった、意識はある。
肩を打って落ちたようだ。床で頭は打たずに済んだか。
「す、すみません……」
謝ったのは彼のほうだった。
慌てたように、彼は床でもがき、なんとか立ち上がる。
タイマーはまだ鳴らない。
時間はまだ1分もたっていないようだ。が。
「ちょっと休んだほうがいいです」
「え?で、でも」
「また、あとでやりましょう」
「あの、大丈夫です、まだ、全然……」
ピピピピピとタイマーが遅ればせながら鳴るが、まだやらせてくれと懇願する青帯。
気持ちはわかる。
わかるが、だからこそ、だ。
「人ひとり壊すと、高くつきますよ。
心も、体も」
「……え?」
「自分自身が、その高いコストを払っていくことになります。
大事にすることが何より大事。
そう思いませんか?」
少し休んで大丈夫そうなら、また、あとでやりましょう。
再びそう言って、和希はグローブを外し始めた。




