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傷だらけの関係を君と。  作者: 真曽木トウル
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54. 誘惑


「何だったら俺も付き合うけど?」


「……面白くない冗談だな」


 和希は不機嫌を隠さない声で言った。

 牧ノ瀬覇華は、和希に、ITFという競技に戻れと拳を以て諭(さと)しにやってきた。

 その師匠の意思を汲んで動いているはずの男の言葉とも思えない。

 この男の、意図がわからない。


「冗談っていうか……三条はまだ狩(・)り(・)た(・)い(・)んでしょ?」


 少し挑発するような声音に、和希は警戒を強める。


「あいつらに捕まらないように、でもまだ、三条が許せない性犯罪者たちを狩りたいのなら、逃げるしかなくない?

 三条が狩りたい奴らを狩りながら、さ」


「…………」


 和希はため息をついた。

 単に何も考えず話しているだけ、か。


 誰かから逃げ続けたことのない男の、現実味のない提案だった。

 目の前の綺麗な顔に、お前も誰かから身を隠して逃げてみろと吐き捨ててやりたい。


(……もう、飽き飽きしてんだよ……)


 飽き飽きするほど、これまで和希はたくさん追われてきた。

 中島ミサナに欲望を向ける男たち、中島ミサナの存在を忘れてくれず、現在を探ろうとする連中。

 女格闘家の和希に関心を向ける連中。挑んでくる連中。そして、今回の本山たち。


 敵だらけの中、逃げて逃げて逃げ続けて、最近は牙をむいて闘って。それでも匿ってくれる人間がいなかったなら、人間一人、どこまで逃げられたというのか。


 いや。

 本当に何もかも捨てて、大切なもの何一つ踏みにじっていけるなら、和希にならできるかもしれない。

 踏みにじっていけるならば。



「……後輩まで、そんな無謀に付き合わせろと?」


「え? 彼は同行前提なの?」



 男は意外そうな声をあげて、慶史の寝袋の方にちらりと視線をやる。



「置いてくわけないだろ。

 そのままにしたら、人質にされるか危害をくわえられる。下手したら、今回の報復に殺されるかも。

 私が守れるところにいないと」


「彼だけ、警察に保護してもらうって手もあると思うけど?

 どっちが確実?」


「…………………」言葉につまる。


 今度は和希が、寝袋の慶史の方に目を向けた。

 距離があるのでベランダからは顔が見えないけど、眠る前、また、和希の代わりに泣いていた。


 勝てて良かったと泣いていた。さっき見た時も目の周りに、涙のあとが残ってた。

 これで和希が救われたのだと、魂を奪い返せたのだと思ったんだろう。

 そうじゃないとはとても言えない。和希よりも喜んでくれた後輩。


 ……確かに。

 和希一人がいくら強かろうが、和希一人で今井慶史を守る、ということは、正直現実的には思えなかった。 


(いやまて)


 そもそも、逃げるという非現実的な選択肢は誰が掲示したものだったか?

 なぜに私が突っ込まれる側に回る?


「だからさ。

 何なら、俺(・)が(・)付き合う、って言ってるじゃん」


 覇華の弟子の男は、まだくだらない冗談を言っている。

 いい加減その色男面にコロチャギひっかけてやりたいと舌打ちをしながら、和希は返した。


「…名前も知らない相手と逃げろって?」


「――――――トオル」


「え?」


「俺の名前。トオル」


(………………?)


 頬に冷たい夜風が走った。

 覚えのある名だけどよくある名でもあるから何と言っていいかわからなくて、数瞬、躊躇した和希の頬を、風が撫でていった。


「そっかー。覚えてないかー。俺のこと」


 がっかりしたように、トオルは肩をすくめる。


 ……あのトオル君なのか?


 感情があふれ湧いてでたのは、それを確認してからだった。


 いつかの全日本の大会の前の日に組手をした、男子。

 一回だけ会ったきりで、顔なんて本当に覚えていない。

 和希が『男を立てろ』という後出しの不文律で大人たちに絡まれる原因になった、あの。

 和希にボコボコにされたことを大人たちにからかわれ、テコンドーをやめてしまったという、あの。


「…………どうして」


 和希の口からやっと出てきた言葉。

 やめたのではなかったか。

 和希のことを恨んでいるんじゃないのか。

 それに……考えがグルグルする。

 牧ノ瀬覇華の弟子で、その意向を汲んで動いている、はず。なのに。


「むしろ俺のほうが、質問したい」


「………?」


 トオルの整った顔から冗談気が消えた。

 月光のような目の光が和希を射すくめる。


「三条はいま、どうしたい? 俺はそれに合わせるよ」


 トオルの言葉が、ふと、グルグルしていた和希の思考回路を落ち着けた。


「一番、何がしたい?

 何をすべきか、じゃなくて、何がしたい?」


「…………私は」


 いまの自分が、望んでいることは、何か。


 和希は、もう一度、部屋の中へ視線を戻した。

 寝袋の中、後輩がもぞもぞと、丸まろうとしていた。


「私は――――――――」



◇◇◇

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