53. 君を恋う月夜
◇◇◇
「―――――――………」
ふうっと、目を覚まして和希の目に入った壁の時計の針は、もう丑三つ時ごろの時間を指していた。
男くさい寝袋の薄さに、少し肌寒さを覚える。
クッションシートが敷かれた床の、すぐ隣には、同じような寝袋にくるまった慶史がスース―寝息を立てていた。
視線を少し移動させると、大きな大きな鏡。
そこは、和希の所属道場の数倍のひろさを持つ練習場で、その一角には、リングが常設され、サンドバッグがいくつもつるされていた。
今宵の大会の主催者が持つキックボクシングジムだ。
主催者に、時間がもう遅いからジムに泊って行けと勧められ、常備してあるという寝袋を借りたのだ。
「あれ、目ぇ覚ました?」
声をかけた男―――牧ノ瀬覇華の弟子と思われる男は、開いたガラス戸の向こう、ベランダにいた。
手すりに手をかけて、もう今にも沈みそうなほど傾いている月でも見ていたのだろうか。
そう、照明はほとんど消してあるというのに、月明かりが十二分に入りすぎて明るくなっていた。
和希は寝袋を這い出る。
肌寒い外にわざわざ出たいという気分でもなかったが、少しばかり聞きたいことがありすぎた。
男はそれまで予想していたようで、和希が寄ってきても当然とばかりに、整った顔の口の端を持ち上げた。
月明かりの中でさえ、華のある容姿。強さに裏打ちされた、そのオーラ。
リングに上がれば、すぐにでもスターになってしまうんだろうな。
「見ごたえある試合で良かったよ。
三条は、どうだった?」
「どうって……」
どう、とは。
聞きたい。彼はどこまでを知っているのか。
和希をつけ狙い襲おうとする集団の首領がファルス本山だということ、その首領を自ら闇討ちに和希がやってきたこと。少なくとも、そこまでは知っているのだろう。
ただ、和希とファルス本山の過去のことはどうなのか?
和希が性被害者であること、過去を隠すため何度も名前を変える必要があることを知っているのはテコンドーの道場の中でもごく一部の者しか知らない。
さらに、その加害者がファルス本山であることを知っているのは、道場の関係者には誰一人いない。
知っているのは、ごく一部の支援者、和希の今の母親、警察関係者ぐらいのものであろう…。
どうって?
答えは、どうでもなかった。
驚くほど、自分に変化はなかった。
どこか調子を悪くする影のようなものが頭と心臓の片隅にいる、この感覚。
試合から数時間で、もうすでに分かった。和希の足を引っ張り続ける心的外傷の奴も、亡霊のようにつきまとい続けるのだろうと。
たぶん、本山を殺していても変わらなかったのだろう、と。
和希はただ、復讐を成し遂げただけだ。
それも本山に奪われたものの、ほんの何パーセントかでしかない。
慶史に言った『魂を奪い返す』には、程遠い。程遠かった。
和希の心中など少しも知らずに、男は気楽に、
「そうだなー。まずは、リングで闘った感想は?」などと言ってくる。
「――――――狭かった」
「え?」
「あと少し広ければ、ってずっと思いながらやってた」
そうか、と男は苦笑する。
「でも、体重差のある相手を上段のヨプチャでKOってめちゃめちゃしびれたよ」
「まぁ。あんたを倒せる蹴りじゃないけど」
「はは」
彼は否定しない。
自分の強さにも自信があるのだろうし、その腕のほどは、和希も直に見ている。
「なんでアイツと私をリングで闘わせた?」
「ん? だって闇討ちより合法的だから」
「なんでそれがあんたに可能だった?」
「あのおっちゃんとは馴染みだからね。
高校生のうちから試合のオファーくれてるし。
出てないけど」
(…………一体、コイツは)
何者なのか。それを問いたいとずっと思っていたが。
ふと、もっと聞きたい問いが出てきてしまった。
「あんただったら……アイツ倒すのにどうした?」
んー、と。
特にこともなげに、彼はちょっと考えると、
「そっか、KOしていいんだもんなぁ。
普通に、蹴り足浮いてる間にミドルに回し蹴り、そのままこめかみにパンデとか」
「確かに」
トルリョチャギとパンデトルリョチャギのコンビネーションはテコンドーの基本中の基本のひとつだが。相手が、片足で体重を支える瞬間こそダメージを大きくする狙い時である。
最初に本山がせっかく蹴りを乱発していたのだから、そこで狙うべきだったか。
まず、普通の柔軟性なら自分より長身の男のこめかみに上段後ろ回し蹴りは当てられないが、彼はできるのだろうし、和希も――――今の和希なら、できる。
「あと息? 俺なら吸った時にヨプチャ合わせたかな」
「ああ、息か……」
そうだ。ボディへの攻撃は、相手が息を吸うときに合わせた方がダメージが大きくなる。
とにかく当てれば。そういうクセで、あまり意識を置いていなかった……
ポイント制武道だから、というのも言い訳でしかない。結局ポイントが同じでも、ダメージを与え相手の力を削いだうえでこちらがポイントを取るというのは、至極合理的な選択肢だからだ。
「……ちょっとカウンターのテンポ遅らせてみればよかった」
「いや?
確かに、三条のカウンターはどれもめっちゃ速いから、ほぼ、相手が息を吐いたタイミングになっちゃうけどさ。
その分相手は心の準備をすることもできないまま気づいた時には食らうし、痛みも強く感じるし、心も折れるし……」
「でも、そればっかりじゃダメなんだ。織り交ぜないと。
如何に、相手のことはわかりながら、こちらのことをわからせないか、じゃないと……」
ああもう。今わかったのに。
(なんで覇華さんと闘るときに、私はわかってなかったんだ……)
心がギリギリする。
もったいない。
もっとベストで闘いたかった。
どうしてもう終わってしまったんだろう。
「――――――三条。これからどうすんの?」
「え?」
「本山のことと、今やってること」
「…………覇華さんから聞いてるのか」
それは、そうか。
彼は牧ノ瀬覇華とつながっているのだから。
ということは少なくとも、和希が連続傷害犯であることを、彼は知っていることになる。
「本山、病院送りにはなったけどさ。
別に殺したわけじゃないじゃん。生きてるじゃん。
もう二度と、襲わせないようにするには、警察に言うべきだと思うけど?」
「で。私も自首をしろと?」
「まぁ、そっちはしらを切りとおすって手もあると思うけど……」
「…………………」
牧ノ瀬覇華の弟子であるなら、本当はそちらを望んでいるのだろう。
どうすんの、って言われても。やはりまだすぐには答えが出てこない、としか言いようがない。
おとなしくして、逃げ切る―――――もちろん、それも選択できるのはわかっているが。
今も首に下げているUSBメモリ。
そこには、これから狩らないといけない性犯罪者たちのデータが詰まっている。
一人狩るのが一人遅れただけで。
一人、殺されるかもしれない。
それは厳然たる現実でしかない。
「それとも、逃げちゃう?」
上段なのか本気なのかわからない口調で、男がそんな言葉をつづけた。




