49. 復讐の合法化
◇◇◇
「三条さん―――」
本来裏方用の通路だろう、狭い廊下の壁を持って。
ストレッチとして、足を伸ばしたまま後ろに高く高く蹴りあげ続ける和希に、慶史はやはり心配げな声をかけてきた。
「今からでも、止めませんか…?」
「やだ」
元々動ける服は着てきていたが、せっかくなので先方が貸すと申し出たジャージ素材のボトムとシャツに着替えさせてもらった。
少し前より足がよく上に上がるのを感じる。
この数日、毎日柔軟や基本練習をしてきたからか。
やはりサークルの柔軟や準備体操は足りない。
以前の自分の柔らかさにはまだ遠いが、しかし、ある意味、ほど良い固さかもしれない。
たからもん、と、さっき言われた言葉が、耳によみがえる。
自分の体の強みになるところ、武器になるところはどこか。ストレッチしながら、数えてみる。
「37㎏差、なんですよね…?
後遺症レベルのケガとか、下手したら死んじゃうかもしれないですよね?」
―――和希の関心の外から無理矢理入ってくるように、再び後輩は続けた。
「ええと、前にその話、終わったじゃん?」
……ついこの前のやり取りを思い出すな……。そう思いながら、和希は足を後ろに振り上げ続ける。
慶史も多分、急な展開に動揺しているのだと思う。
先のことをまるで何も真っ白なまま、目の前の安全を確保しなくてはと焦ってしまうほどには。
「あの、せめて…ヘッドギア、つけませんか?」
「なんでわざわざ的大きくして視界狭めて、こっちの有利なとこ削ぐようなことを?」
「でも、もし、パンチとか食らったら」
「びたいちパンチを食らわないように、三条はヘッドギアつけたくないんだろ?」
いきなり横から入ってきたのは、いつの間にかいた、牧ノ瀬覇華の弟子の男の声だった。
和希は足をすっと下ろし、同年代の男たち二人に向き直る。
「で、三条。久しぶりの合法的なスパーの意気込みはどう?」
「別に」
「そう? スパーになっちゃったから、不意打ち防がれて、急所攻撃も軒並みだめで、圧倒的に不利にさせられたってめっちゃなじられるかと俺期待してたのに」
弟子の男のふざけた口調に音も隠さず舌打ちする和希。
一瞬遅れて後輩が「え」という顔をして和希と弟子の男を交互に見る。
そうか、慶史は気づいていなかったか。
体格差・性別の分、おなじ土俵に乗らずに闘うために路上ファイトという手を選ぶのであり。リングの上は同じ土俵の上なんだと。
「そうだね。付け加えるとリングの中は狭いしロープが邪魔。
床も、木の床と違って足の指で掴みづらい。
あとグローブ着けるから目つぶしが使えないの最悪」
えーそこはオプンソンク(テコンドー式貫手)じゃないんだ?、と弟子の男は軽口をたたく。
「まぁ、足元は、俺らと違って三条靴はいて闘ってばっかだから問題ないんじゃないの?
衆人環視の状況なら、本山も無茶や汚い技はできないし。
こっちはこっちで、金的やっちゃっても、下段蹴りで足を折っても、過失で済むじゃん?」
「……テキトーだな」
相手への脱力がそのまま言葉としてこぼれ出た。
「人の8年越しの復讐に水差しておいて、随分ざっくりだな…」
「違法な形でやろうとしたものを合法的にやれるようにしてあげたんだから、むしろ感謝してほしいけどな?」
「……………」
それについては和希も黙らざるを得ない。
和希が捕まった場合著しく傷つくであろう、ITFテコンドーそのものの名誉について―――連続傷害をしでかした当の本人のくせして―――どうでも良い、と言い切れないのは和希自身だ。
牧ノ瀬覇華にもこの弟子にも、それを見透かされている。
「あ、そうそう。マウスピース。売店で売ってたから…」
「いや。マウスピースは持ってきた」
「へぇ? 闇討ちのつもりだったのに用意してたんだ? なら良かった。
じゃあ、俺先にリングのところいるから。早いとこおいで」
そう言って覇華の弟子はすたすたと廊下を歩いていった。
その背中を見送りながら、和希は膝を高く上げグルグル回した。
その足を、止めたのは。
ずっと黙って会話を聞いていた慶史が、諦めたようにため息をついたからだ。
「…………」
しまった。
ごめん、慶史。
この先の闘いに気をとられての無意識の行動だったけど、少し前まで思いきり心配してくれた人に対して、今かなり失礼なことをしたぞ自分。
格闘技経験のない慶史を仲間外れにしたつもりも軽視したつもりもなかった、けど、言い訳にもならない、けど。
どう言葉をかけるか咄嗟に出なくて、沈黙のまま思わず唇を噛んだ……。
うつむいた後輩が、顔を上げ、引き結んでいた唇を開く。
「楽しそうですね」
「へ……?」
出てきた言葉が予想外で、間の抜けた声を上げてしまった。
(楽しそう? ――――私が?)
楽しそう。
それは、さっき和希がキックボクシングの選手たちに抱いた感想ではなかったか?
好敵手とじゃない。不倶戴天の敵と自分は闘うというのに?
それに、慶史も、もっとプライドが傷ついたような顔をしていると思ったら、どこか、せいせいとしたような、何かひとつけりをつけたような顔で。
慶史の思いを測り兼ね、和希は慶史の次の言葉を待った。
「だったら、もういいです」
「もういいって……」
「後輩はリングの下で大人しく見てるので、絶対勝ってきてください」
顔を上げて和希を真っすぐに見て。
諦めたとも結論が出たともとれるそんな言葉を、一言一言、丁寧に慶史は言った。
もとより勝ち負けのある試合の設定ではない。
でも、勝ってきてください、以外の言葉の選択肢がなかったのも、和希はわかった。
「……大丈夫」
和希が返した言葉も、ほぼ無意識の選択だった。
「本山は私に勝てないから」
◇◇◇




