21. 残念な戦闘者
(………ヤバイ)
至近距離。体温と吐息が絡んだ。
鼻が触れ合ってうっかりキスしてしまうぐらい、桜井の顔が近い。
川端通りの車とか三条通りに増えつつある人とか鴨川等間隔のカップルとか、余計なことなんてみんな忘れたい。
理性なんて、大脳新皮質ごと溶けてなくなってしまえばいい。
そう思ってしまう自分が、一番ヤバイ。
どうしたらいい? まだ好きだ。
……最初は戸惑う表情を見せた桜井だったが……やがて、開き直ったらしい。
腕が、するりと和希の首を抱いた。
もう一本、和希の背中に手が回った。
(…………!?)
抱きしめられている。
心臓の音がうるさい。うるさいうるさいうるさい。
このまま壊れてしまえと思うほど。
暖かい桜井の体に抱きこまれた。
肩越しに、地面の草を見つめる。
体温も匂いも、泣きたいほど桜井だった。
(……振ったくせに)
終わっているんだ。知っている。
危ない殴り合いを続けるならもう付き合えない、ってはっきり言われた。
人を殴ったこともない桜井の守るという言葉よりも、自分の手足という血なまぐさい武器の方が信じられる和希に、続けない選択肢なんてなかった。
抱き締めているのはおそらく、和希に感情が残ってるからではない。
(このまま抱きしめてしまえば、私を捕まえてしまえるからだよね?)
わかってはいたけれど、好きな男の息吹を前に、抗い切れない。
和希を抱いた桜井の腕に、力がこもる。
それを感じると和希は目を閉じ、突っ張っていた手足の力を抜いて、桜井の上に身を預けてしまった。
(…………)
人目を感じる。それは桜井もわかっているはずだ。
目的のために。
……和希を、止めるために。
人目も気にせずに、臆面もなく和希を抱きしめられる。桜井という男はそういう男だ。
つくづくいい男だと。和希は心底、痛いほどそう思う。
……ただ。
和希は深く、溜息をついた。
『男』だった、桜井も。
和希の太ももの付け根のあたりに、確かにあたる感触がある。
身を桜井にゆだねたとき触れたそのわずかな突起の感触が、和希を一気に現実に引き戻した。
……和希と桜井の間の、服ニ枚分の現実に。
自分は、桜井に、何もあげられない。
皮肉な笑いを浮かべて和希は、体をひねると、桜井の腕の下に自分の腕を通し。
ぐっと和希を抱きしめる桜井の力強いクラッチを、
「んあっ……」
腕刀で二の腕の急所を押さえて外すと、桜井が痛みに顔をしかめて転がった。
深呼吸、ひとつついて起き上がり、和希は桜井を見やる。
自分が痛めつけた場所を押さえて痛がる桜井に、ずきりと胸が痛い。
それでも、唇をゆがめて、笑ってみせた。
ずきずきと。無理に笑うと、こんなに心臓が痛いんだと知った。
「ごめん。
君に触られるの、もう無理だったわ」
目を見開いて、まじまじと桜井は和希を見つめた。
和希は目をそらさなかった。
多分、この痛さが、自分への罰なんだろう。
……やがて桜井は、顔をそむける。
腕を押さえたまま和希に背中を向けて、川端通りに上っていった。
少し、よろけている。
彼の細い肩が、震えていた。
桜井が見えなくなってから、和希は乱暴に、橋げたを蹴りつけた。
(クソッ……)
桜井は何も悪くない。
ただ、男に産まれただけで。
ただ、誠実に和希を大切にしてくれただけで。
好きだった。なんで好きになってしまったんだろう。
自分は桜井を幸せにできないのに。何もあげられないのに。
胃の腑にぐるぐる、行き場をなくした桜井への思いが宿っているのに気がついた。
泣く事が出来ない和希には、殴るか蹴るしかできない。
もう一度、橋げたをかかとで蹴りつけた。
◇◇◇
吐息をもらしながら和希は、どっしりと重い体を川の反対側まで運ぶ。
(……だめだ)
相当、状態がひどい。
こんな精神状態の時に素人の相手をしたら、大けがをさせてしまうかもしれない。
迷いながら三条大橋の橋げたによりかかる和希に、橋の上から、
「……もしかして、三条和希さんですかあ?」
と、声をかけてくる者がいた。
こちらを見やる、思ったより若い男の姿を認め、和希は、彼に無言でうなずいてみせた。
しかし、どうしたものか、と悩みながら……
その、上に気を取られた刹那……。
(……!?)
突然。
和希は何者かに後ろから口をふさがれた。
背中から捕まえてきた男は、左手で和希の口をふさいだが、右手は和希の腕を拘束するでもなく、妙な動きをした。
和希のTシャツの襟元に何かが差し込まれたと思ったら、あごの下でジョキリと鈍い音がしたのだ。
男にとって運が悪かったのは、女の和希の肩の筋肉が足に比べればそれほどついておらず、また、彼女の肩自体が相当な柔軟性を持っていたことだ。
和希は躊躇なく、背中の男のレバーに肘を突き入れた。
奇妙なうめき声をあげる男。
思わず腕の力が緩んだところで、和希は襟元に侵入した腕をはじくと、跳んで距離をとりながら回転。
左右の足で回し蹴りと跳び回転後ろ蹴りを叩きこんで仕留めた。
男が倒れ、キイン、と、硬い音を立てて、金物が落ちた。
それは大きな、裁ちバサミ。
改めて自分の胸元を見ると、Tシャツの襟元が数センチ斬り裂かれていて、スポーツブラとその上に巻いたサラシが、少し露出している。
いまさらながら、和希の背後で悲鳴があがった。
鴨川に等間隔で座って甘い時間を過ごしていたどれかのカップルの女が声をあげたのであろう。
和希を襲った男は倒れた地面で腹を抱え、うずくまる。
みぞおちに直線にかかとを叩きこむ蹴りを食らうと大体しばらく動けなくなる。
こいつはしばらく大丈夫だろう。
しかしその後ろ……
三条大橋の橋げたの向こうから、何人か、ぞろぞろと、男たちが出てくるのだ。
カップルたちは遠巻きにこちらを見ていたり、不穏な空気を感じてばたばたと逃げだしたりしている。
「……あのー。
前田光世ルールだなんて聞いてないんですが?」
連中、答えない。
まぁ、誰がどう見ても単なるトラップだろう。
(こういうの避けたかったから、わざわざこんな人の多いとこ待ち合わせにしたのになぁ)
こんなことならすぐ上に交番がある、四条大橋にしておけばよかったか?
……ああ、認めないといけない。
ついさっき。桜井のこと、あんなに心臓が止まりそうなほど胸が詰まる思いだったのに。
今、全身の血流が目まぐるしく走り、もう体が敵を迎え撃つモードに切り替わっている。
残念だ。本当に自分は……残念な人間だ。
「誰から頼まれた?」
極力さりげない風を装いながら、後ずさり、敵の人数と配置を確認する。
1、2、3……あと8人。全員男だ。
一対多数は、とにかく敵の位置の把握と自身のポジショニングが命だというのが、元サッカー部の和希の持論である。
一人一人をまともに相手にすることはない。
………最短の効率で終わらせるには、さかさか斬り抜けて逃げるのがベストか。
その最短を目指すことにさえ体が燃えている。
こんな戦闘狂に、桜井の良いカノジョなんて、土台無理だった。
一番近い奴が、不意を突くつもりだったのか、だだっと突進してくる
(……!?)
なんとコイツも、ハサミを手に握って振りかざしている。
背中を向け気味に逃げると見せかけてタイミングをはかり、横蹴りで止めた。
まともに鳩尾に食らった相手は、地面に崩れ落ちた。
ふたりめがやられたところで残りの男たちも総攻撃にかかるかと思ったが、何やら、
「……おい、橋から離れてもたやん」
などと、言っている。
和希は舌打ちする。
(動けない仲間の背中ぐらい、さすってやれば?)などと思う………。
口に垂れた汗を、ペロリと舐めた。
「おい、2人とか3人で同時に挟め。
とにかくここでコイツを上だけでも裸に剥いて、あとは逃げちまえばいい」
と、中心人物らしい男が声をかける。
「だって、全裸で縛って、橋の上から吊るしてさらしものって企画だったんじゃ……」
「とりあえずそれぐらいしか余裕ない。
橋の上の連中が撮ってくれてりゃなんとか……」
……企画?
その言葉を耳にして、和希は口の端で笑った。
痛すぎると逆に笑えてしまう。
企画。昔よく聞いた言葉。そうか、もしかして、こいつらは……。
とりあえず、最短でけりをつけて逃げようと思っていた和希の気が変わったのだけは、確かだ。
「んじゃ」
和希は一息、深くついて。やつらを見まわし。
一番近い奴の、間合いにすっと入りこむと、男の急所をつま先で跳ねあげた。
……彼は、先ほどの二人より明らかに痛そうな顔をして、悶絶した。
首をのばして、冷たい目でやつらをみやり。和希は高らかに、
「全員、金的でつぶす」
と、宣言した。




