20. 元カレ
◇◇◇
『別に欠けたままでいいものなんじゃないかと思って』
鴨川沿い。
川べりに腰掛けて夕涼みをしながら、和希は、今井慶史の言葉を反芻した。
今井慶史には土足で入るような厚かましさがなく、謙虚な態度には好感が持てる。
たまにいらっとするが、結局いい奴なんだろう……。
和希の中ではひとつ答えが出ている。
……あえて女になろうとする限り、女として愛する人や世界とかかわろうとするとき、自分は『欠陥品』になる。
ならばそうしなければいい。
例えば日比谷先輩のように女を強いてくる相手とか、心を乱すものに極力触れなければ、女でない何かとして心穏やかに生きられるはずだ。
覇華の求めについてはまた考えよう。
今日は別の用事がある。
そう。気合を入れないといけない用事が……。
足首をくるくるとまわしていると、
「和希……?」
後ろから、声をかけられた。
ぎくり、と、した。
一番、会っちゃいけない相手の声のような気がした。
そうでないことを願いながら高鳴る心臓、和希は振り返れない。
「隣、座るな?」
振り返る前に、すっと、和希の隣に、男が座る。
無理して前を向き続ける和希の、視界に入るのは、足と、体育ずわりのように足にかかる手だけだけど……
和希の好きな足と手だ。
ああ、間違いようがない。
桜井信彦だ。
視界に入るだけで、切ないぐらいの愛おしさと後悔がこみあげそうになってしまい、和希は慌てて顔を反対側に背ける。
……それでもやっぱり気になって、ちらりと、桜井を見やった。
彼はこちらを見ていた。どうしたらいいのかわからなくなる。
息もできないほど胸が詰まる。何も言えないまま、和希は、黙りこくった。
1年前、和希にとって桜井は、入ったばかりのサークルの練習の中で時々顔を合わせる人、だった。
穏やかで、距離感が適度で、接し方がフラットで、ここからは入ってはいけないというところですっと引くのがうまく。
男に対してしばしばどうしようもなく生理的嫌悪や恐怖が発生しやすい和希にとって、比較的、気持ちを許せる相手でもあった。
しいて言えば、法学部の入試成績トップだというのをすごいと思っていた記憶がある。
発端は、日比谷・新橋の前の代、去年の主将副将たちの気まぐれな問いかけだった。
――――女子ほんと来ないし、桜井と三条、あいうえお順でいつも隣り合うから組ましちゃうんだよねー。
――――あ、そうなの? いつも一緒だし、付き合ってんのかと思ってたー。
――――でも、桜井だと、三条嫌がらないし。
――――付き合えば? 付き合わない理由ある? 三条、桜井のことどう思う?
――――三条、男ギライすぎるもんなぁ。桜井逃すと一生結婚できないかもよ。
繰り返されたその問いに、和希がうまく返せず、だんだん外堀を埋められた。
身もふたもなく言えば、最終的に付き合った理由は、二人とも断り切れなかったからだ。
派手ではないが整った容姿のために逆にあれやこれやと先輩たちにいじられやすかった桜井は、先輩たちのお遊びで貧乏くじをひかされたのだと思う。
真面目な桜井と思いつめがちな和希。
お互い交際初めて同士で冗談の通じない二人は、模索しながら付き合うことになった。
桜井は優しかった。体もあげられない女に、精一杯の誠意をくれた。
人を殴る蹴るしか能がない和希は、女として何も返せず、桜井を幸せにできなかった。
……とうに振られているし、終わっている。
自分が悪かったし、自分のような女に桜井はもったいなかった。最初から間違いだった。
最初から止められていれば。
優しい桜井を好きになんてならなければ。
時間が、じりじり過ぎていく。
胸の痛ささえ幸せに思う自分がいることに気づいて反吐が出そう。
耐えられない。
「あ、あのさ…」
「これから、行くん?」
「え……」
「バンテ、してる」
はっ、と、自分の両手に巻かれたバンテージの存在を思い出し、慌てて自分の両膝の下にバンテを巻いた手を隠す。
「隠しても同じやん」
そう言って、桜井は和希の手をとり、足の下から引っ張りだした。
「バレへんように隠してたって、悪いもんは変わらへん。
そうやろ?」
穏やかな口調ながら有無を言わさない。手をぎゅっと掴まれている。
他の男なら振り払うところだが、桜井にそれはできない。
「……きょ、今日は、合意の上の対戦だからさ。闇討ちとか、そんなのじゃないよ。
立ち技で軽く対戦してみたいっていう人から、ネットで何度も連絡が来たから……
大けがとか、させないし……」
18時、三条大橋の下で待ち合わせ予定。
そこから、鴨川沿いでどこか灯りと余裕のあるスペースを見つけて、軽く路上スパーという予定だった。
和希のファンを名乗る人物からは何度となくそのような誘いがあり、たいていはスパーでぼこぼこにしてやれば相手は満足する。
危ないことがあっても基本、和希の方でKOしてしまえば特に問題なかった。
そう。自分にとっては身を守るより闘う方が安全。
危ないわけなんか、ない。
けど。
「…………行ったらあかんよ」
いつも笑顔を絶やさないような桜井には、似合わない怖い表情。
和希は笑って見せようとしたが、頬がひきつるのがわかる。
「だ、だから、今日はそんなには……」
「今日は、じゃなくて」
桜井の腕に、力が入る。立てない。
「こうゆうこと、もう、全部。終わりにしよ?
そろそろつらいんやろ?」
「…………」
息が震えた。
触れられたところから熱くなる。
力が抜けていく。
やめてくれ。存在だけで、女にさせられる。
五臓六腑を駆け回って増幅されていく感情が、暴発する場所を求めてた。
「…………!?」
邪魔をするなと振り払った……つもりだったのに。
あくまで和希の手を離さない桜井と、草の上でごろごろと格闘し、苦手な寝技の攻防―――
――――気がつけば和希は、斜面の初夏の草の上に、桜井を組み敷いていた。




