交易都市の罠(後編)
「ま、間違いなく奇数だ……! 聖女様の勝ちだ!」
御者台のトボトボした姿から一転、ギルバートが部屋の隅で歓喜の声をあげる。
マルコ男爵の部下たちが一斉に彼を睨みつけ、ギルバートは慌てて口を塞いだ。
テーブルの上の空気は、完全に凍りついていた。
マルコ男爵は立ち上がったまま、信じられないという目で手元の純銀のダイスを見つめている。
彼の自慢の「魔力感知」には、一切の妨害魔法の痕跡が引っかかっていない。
魔力の火花一つ散っていないのだ。
それなのに、完璧にコントロールしていたはずの出目が、目の前の小娘の一言で引っ繰り返った。
「……偶然だ。ただの、あり得ん確率を引いただけだ」
マルコは自分に言い聞かせるように呟き、ドサリと椅子に座り直した。
その額には、先ほどまではなかった脂汗がじんわりと浮き出ている。
「そう思いたいなら、もう一度どうぞ。男爵、あなたの『運命』が、我が聖女の前にどこまで無力か、その身で知るといい」
俺は挑発的に、手元に戻ってきた数枚の金貨を再び前線へと押し出した。
「おもしろい……。全額レイズ(上乗せ)だ。ギルバートから奪った推薦状も権利書もすべて賭けてやる。ただし、次外せばその命、本当にここで貰うぞ!」
マルコが狂ったようにダイスカップを掴み、今度はこれでもかと激しくシェイクした。
――ガタガタガタガタガタガタッ!その最中、マルコの指輪のルビーが、一瞬だけ一層強く輝いた。
俺は見逃さなかった。
彼はイカサマの出目を『偶数』から『奇数』へと、リアルタイムで切り替えたのだ。
(こちらが『奇数』の奇跡を信じていると踏んで、あえて出目を裏切ってきたか。あるいは、ただのパニックか)
どちらにせよ、関係ない。ドンッ!とカップが机に叩きつけられる。
マルコの仕込みにより、ダイスは今度こそ確実に『偶数』の出目で固まろうとしている。
俺はソフィアの手のひらに、今度は「偶」の文字を素早く書いた。
ソフィアは小さく息を吸い込み、再びカップの前にしなやかな両手をかざした。
マルコの目は蛇のようにソフィアの指先に吸い付いている。
だが、彼が見ているのは「魔法の発動」だ。
袖の隙間から、ソフィアが今度は『二本の髪の毛』を、親指の爪で弾くように滑り込ませたことには、夢にも気づかない。
物理的な僅かな引っ掛かり。重心の移動を、物理的な傾きが強制的にキャンセルの方向へ引き戻す。
「……『偶数』に賭けます」
ソフィアが告げた。「開けろ!」マルコが叫ぶ。
カップが持ち上げられた。出目は、2、4、6の合計12。偶数。「ひっ……!?」マルコの口から、情けない悲鳴が漏れた。
2連続の的中。それも、自分が直前でイカサマの設定を切り替えたにもかかわらず、完全に先回りされたのだ。
「バカな……! 私は直前で出目を変えた! 魔力の流れも一切乱れていなかった! なぜ、なぜ当たる!?」
マルコは錯乱し、自らイカサマの存在を暴露するような失言を叫んだ。
俺は一歩、机に歩み寄り、立ち尽くすマルコを冷酷に見下ろした。仕上げの時間だ。
「言ったはずです、男爵。魔法ではない、と。あなたがどれほど姑息な魔力で世界の確率をねじ曲げようとも、我が聖女のオッドアイは、その先にある『因果の糸』を最初から掴んでいる」
俺の声は、部屋の空気を完全に支配していた。
「あなたがダイスを振る前から、結果は彼女の頭の中で決定している。あなたが抵抗すればするほど、世界の因果は歪み、あなたの『運命』は破滅へと収束していくのですよ」
(騙されろ。お前の高い魔力感知が、何も感知できないという『事実』そのものに、底知れない恐怖を感じろ……!)
マルコは己の指輪を見つめ、それからソフィアの瞳を見つめた。
(何も感じない……。私の最高級の魔導具が、完全に無視されている。このガキの言う通り、これは魔法の次元じゃない。本物の……神の領域の『因果の書き換え』なのか……!?)
『対象が【嘘(因果を書き換える瞳)】を、理解を超えた物理的事象により、100%真実だと信頼しました』
『因果律の書き換えを実行します――ソフィアのオッドアイに「確率を僅かに歪める神聖魔力(偽)」を定着させます』
脳内に、あの冷徹なシステム音が鳴り響いた。
その瞬間、ソフィアの左の金色の瞳が、ゾクッとするほど美しく、本物の神聖な光を放ち始めた。
手品でも、錯覚でもない。
世界が俺の嘘を真実にするために作り出した、本物の
「因果を支配する光(の偽物)」だ。
「ああ……あああああ!」その輝きを見た瞬間、マルコは完全に精神を破壊された。
彼は膝から崩れ落ち、頭を抱えてガタガタと震え出した。
百戦錬磨のギャンブラーが、魔力ゼロの少年のハッタリと、少女の放った一本の髪の毛によって、自滅した瞬間だった。「勝負は決しましたね、マルコ男爵」俺はテーブルの上に散らばるギルバートの『領主の推薦状』、土地の権利書、そしてこのカジノの経営権を示す書類を、優雅に手元へと引き寄せた。
ソフィアがそっと息を吐き、ドレスの袖から髪の毛を回収する。
彼女の額にも、安堵の汗が浮かんでいた。
「約束通り、これらはすべて我々が有効に活用させていただきます。……さあ、ソフィア、ギルバート。馬車を出せ」
俺は推薦状を懐にしまい、振り返る。
「次はいよいよ、世界の中心――王都だ」




