豚を飼いならす
「し、失礼いたします、アルス様……! 頼まれていたものを、すべて持ってまいりました……!」
翌朝、俺が手配した安宿のボロ部屋に、大汗をかいた豚貴族――ギルバートがやってきた。
昨日あれだけ俺を「ゴミ虫」と見下していた男が、今は生まれたての小鹿のようにブルブルと震え、床に額を擦り付けている。
その姿には、かつて前世で俺に全財産を騙し取られた悪徳政治家たちの面影が重なった。
彼の後ろには、数人の部下が血眼になって運んできた頑丈な木箱が並んでいた。
蓋を開けると、眩いばかりの金貨、魔力を秘めた数々の宝石、そして一枚の豪奢な羊皮紙が収められている。
「この街における私の私財、すべてでございます! 土地の権利書と、王都の有力者に繋がる『領主の推薦状』もございます! ですから、どうか……どうか呪いの解除を……!」
ギルバートの首筋には、昨日俺のついた「嘘」によって現実化した、黒い呪いの血管が今も不気味にドクドクと拍動していた。
能力の解除自体は簡単だ。
俺が心の中で「あれは嘘だ」と認めれば、因果律は元に戻る。
だが、ここで一気に解いてしまえば、この豚は喉元を過ぎればすぐに牙を剥くだろう。
恐怖という名の首輪は、少しずつ締めたり緩めたりするのが鉄則だ。
「……ふむ。誠意は伝わった」
俺はベッドに深く腰掛けたまま、値踏みするように金貨を指で弄んだ。
「呪いの進行は一旦止めておいた。だが、完全に根絶するには、あと3回は私の『施術』が必要だ。……意味は分かるな? ギルバート」
「は、はいっ! 今後もアルス様には絶対に従います! 何なりとお命じください!」
完璧な奴隷(財布)の完成だ。
戦闘力も魔力もゼロの俺が、この異常な世界で生き抜くための、強固な足がかり。
俺が内面で冷酷にほくそ笑んだ、その時だった。
――ドンッ!!!宿の薄い木の扉が、凄まじい音を立てて内側へと蹴破られた。
衝撃で部屋中の埃が舞い上がり、ギルバートが短い悲鳴を上げて床に転がる。
「そこまでだ、詐欺師の小僧」
室内に踏み込んできたのは、全身を白銀の鎧で包んだ一人の男だった。
腰には彫刻の施された見事な長剣。
その引き締まった体躯から放たれる圧倒的な威圧感と、冷徹な青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
男の後ろには、完全武装した兵士たちが一糸乱れぬ動きで部屋を取り囲んでいた。
「し、シャイアード騎士団長……!? なぜ、ここに……っ」
ギルバートが歯をガタガタと鳴らしながら声を漏らす。
シャイアード。アルスの記憶の引き出しが弾けた。
この地方の治安維持を統括する、王宮直属の騎士団長だ。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた叩き上げの実力者であり、何より
「極めて冷静で、徹底的な合理主義者」
として知られている。
昨日の広場での騒ぎを聞きつけ、裏で何かが動いていると察知し、即座に動いたらしい。
(チッ……。予定より早く、本物の『強者』が釣れちまったな)
俺の脳細胞が、一瞬で超高速回転を始める。
シャイアードは床に這いつくばるギルバートを一瞥し、侮蔑を込めて吐き捨てた。
「ギルバート殿、目を覚ましなさい。そこの少年は、教会の魔力測定器で【完全なゼロ】と証明されているただの平民だ。呪術などという高等技術を使えるはずがない」
「だ、だが、私は現に血を吐き、今もこうして呪いの痣が動いているのです!」
「そんなものは、事前にあなたの飲み水や食事に『魔血草の毒』でも仕込んでおけば、いくらでも偽装できる。昨日の広場での問答も、あなたの小心な心理を誘導しただけに過ぎん。……おい、少年」
シャイアードが音もなく長剣を抜き放ち、その冷たい切っ先を俺の喉元へピタリと突きつけた。
肌がピリピリと痺れるような、本物の殺気。
今までのクズどもとは密度が違う。
一歩でも動けば、あるいは言葉を詰まらせれば、この男は躊躇なく俺の首を撥ねるだろう。
『警告:対象があなたの「能力(呪い)」を強く疑っています』
『脳波・心拍数の乱れを検知。これ以上の不審な言動は「見破られた」と判定され、ペナルティ(即死)が発動します』
脳内に不快な赤文字のシステム警告が点滅する。背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
だが、前世でマフィアのボスに脳天へ銃口を突きつけられた時でさえ、俺は煙草の煙を吹きかけて笑ってみせた男だ。
ここで怯めば、システムに「敗北」とみなされ、その瞬間に俺の心臓は止まる。
俺はフッと、むしろ愛おしいものを見るかのように小さく鼻で笑った。
喉元の刃に対して、自ら半歩近づくようにして顎を引き、シャイアードを挑発的に見上げる。
「偽装、ですか。……さすがは高潔なる騎士団長。凡百の有象無象とは違い、実に頭がキレる。だが――」
言葉を紡ぎながら、俺の視線は部屋のあらゆる「要素」をスキャンしていた。シャイアードの装備、兵士たちの配置、そして部屋の片隅にある窓の縁。
そこに、小さな『ある違和感』を見つけた。
先ほど彼らが荒々しく扉を蹴破った衝撃。その振動によって、古びた窓枠の隙間に溜まっていた
「細かい粉末」が、室内の空気に乗ってサラサラと梁のあたりへ舞い落ちていたのだ。
それは、この地域で初夏にだけ見られる
『落雷虫の乾燥鱗粉』
この世界ではありふれた害虫の死骸の粉だが、乾燥すると強力な静電気を帯び、強い衝撃や摩擦によって「青い火花」を散らす性質を持っていた。
(組み立てられる。この男をハメる、完璧な『ロジック』が)
俺はシャイアードの目を真っ向から見据え、詐欺師の真骨頂である、劇場型のトーンで声を響かせた。
「貴殿ほどの男が、世界の『真の理』を知らぬとは滑稽だ。シャイアード殿、私は魔力などという、体内の臓器から搾り出す安っぽいエネルギーは使わない。私が扱うのは、世界の因果そのものを直接書き換える【神聖なる神託】だ。測定器に映らぬのも当然。私の身にあるのは、魔力ではなく『世界の法則そのもの』なのだからな」
「神託だと? どこまでも口から出まかせを……。ならば今ここで、その力を証明してみせろ。できねば首を落とす」
シャイアードの瞳に、わずかな焦燥が混じる。
人は、自分の理解を超えた「絶対的な自信」に出会った時、無意識に揺らぐ。
その揺らぎこそが、詐欺師の付け入る隙だ。
「いいだろう。ならば試してみるか? 今から3秒後、私の言葉に従い、貴殿の頭上に『天罰の雷火』が降る」
俺はゆっくりと、左手の指を天井へと突き上げた。
「……何?」
「3」
シャイアードの眉がピクリと動く。だが、彼の剣はまだ微動だにしない。
「2」
俺は指先を、彼の頭上……ちょうど、蹴破られた扉の真上にある古い木製の梁へと向けた。
そこには、先ほど舞い上がった落雷虫の粉が、空気の対流によって濃密な塊となって漂っている。
「1」
俺は、右足の靴底を、床の石畳に仕込まれていた古い鉄の鋲に強く擦り付けた。
前世のパフォーマーが使う、衣服の摩擦を利用して静電気を瞬間的に増幅させる特殊な歩行術。衣服から発生した大量の静電気が、鉄の鋲を通じて俺の体を駆け巡り、突き上げた左の指先へと集約される。そして――湿気った室内の空気を媒介にして、梁の上の鱗粉へと見えない電気の道が繋がった。
「――『破邪の雷火よ、無礼者に燻りを与えよ』」
――パァァァン!!!シャイアードの頭上で、鮮烈な「青い稲妻」が爆発した。激しい閃光と、鼓膜を震わせる爆音。
殺傷力こそないが、それは暗い宿の一室を真昼のように照らし出す、完璧な「高位の雷魔法」にしか見えない現象だった。
「うおわぁっ!?」
「ま、魔法!? 詠唱も魔方陣もなしにか!?」
周囲の兵士たちが恐怖のあまり、持っていた槍を放り投げて床に伏せる。
シャイアードもまた、驚愕に目を見開き、数歩後ずさりした。
彼の自慢の金髪の毛先が、残留した静電気でチリチリと不気味に逆立っている。
魔力ゼロの人間が、道具も使わず、ただの言葉一つで「落雷」を起こした。
科学の知識を持たないこの世界の人間にとって、それはどれだけ疑おうとも「本物の神の奇跡」として脳に焼き付く。
『対象が【嘘(神託の雷火)】を完全に真実だと誤認しました』
『因果律の書き換えを実行します――アルスの体内に、微弱な「神聖魔力(偽)」の気配を定着させます』
――勝った。システムが世界を書き換え、俺の体に、感知能力の高い者ほど恐怖する「高位の存在」の偽オーラをまとわせた。
シャイアードは、自分の頭上と、俺の指先を交互に見つめ、ガタガタと剣を握る手を震わせた。
彼の卓越した洞察力と魔力感知能力が、逆に彼自身を最悪の袋小路へと追い詰める。
(バカな……! 魔力はゼロの筈だ。だが今、確かに私の『魔力感知』の網に、底知れない、未知の『何か』が引っかかった……! この少年、本当に人間ではない『神の使者』か何かなのか……!?)
「信じるか、信じないかは、貴殿の自由だ。シャイアード殿」
俺は静かに腕を組み、冷徹な神のごとき、傲慢な笑みを浮かべた。
「次にその剣を私に向ければ……次こそ、貴殿の心臓を内側から焼き尽くそう。私の言葉一つで、な」
シャイアードは、屈辱と、それを遥かに上回る圧倒的な根源的恐怖に顔を歪め――やがて、ゆっくりと、しかし確実に剣を鞘に収めた。
「……失礼した。私の、調査不足だったようだ。引くぞ!」
踵を返し、逃げるように部屋を去っていく騎士団長と兵士たち。その背中を見送りながら、俺は深く息を吐き出した。静まり返った部屋で、ギルバートだけが
「やはり、やはりこのお方は本物の神の代弁者だ……!」
と、完全に洗脳された狂信者の目で俺を見つめていた。
「ふぅ……死ぬかと思ったぜ」
俺は心の中で激しい動悸を抑えながら、ギルバートが持ってきた「王都への推薦状」を拾い上げた。
ただの魔力なしが、街で一番疑い深い騎士団長をハメた。
これでこの街の権力者は、もう誰も俺を疑わない。
いや、疑うことすら恐れるだろう。
「よし、ギルバート。馬車を出せ。……最高に面白い、王都の舞台へ行くぞ」




