第9話 復縁はお断りです。私は私のペースで、不完全なまま生きていきます
冷たい夜風が、私とエドワード殿下の間を吹き抜けた。
玄関の敷居を挟んで向かい合った彼は、かつての傲慢な王太子の面影を完全に失っていた。
肩は丸まり、金色の瞳はすがるように私を見つめている。
「俺が、間違っていた」
絞り出すような低い声だった。
彼はゆっくりと、私に向かって頭を下げた。
王国の頂点に立つはずの彼が、平民街の薄暗い路地で、身分を剥奪された私に。
「君が王宮でどれほど裏方の実務を担い、俺たちを支えてくれていたか……いなくなって初めて思い知った。君が残したマニュアルを破棄した俺は、ただの愚か者だ。今の王宮は完全に麻痺している。誰も俺についてこない」
彼は顔を上げ、痛切な表情で私に手を伸ばそうとした。
「リゼット、頼む。もう一度俺の婚約者に戻ってきてくれ。君の有能な力が必要なんだ。これからは君を完璧だと認める。大事にするから……!」
その言葉を聞いて、私の胸の奥に湧き上がったのは、怒りでもなく、ざまぁみろという優越感でもなかった。
ただ、ひどく静かな凪のような感情だった。
私は彼が伸ばした手を避けることもなく、ただ真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。
「殿下。過大評価です」
「え……?」
「私は有能ではありません。ただ、あなたに認めてもらうために、怒られないために、必死に睡眠を削って完璧な令嬢を演じていただけです」
私は自分の言葉が、かつてなく穏やかな響きを持っていることに気づいた。
「私は本当は、プレッシャーに弱くて、緊張すると変なことを言ってしまう人間です。休みの日は一日中毛布にくるまっていたいし、猫を撫でてダラダラ過ごすのが大好きです」
エドワード殿下は息を呑み、目を見開いていた。
彼が知っている「完璧で可愛げのないリゼット」とは違う、今の私の等身大の姿だ。
「ですから、殿下の求める完璧な婚約者には、もう二度と戻れません」
私は一つ深呼吸をして、言葉を続けた。
「それに、今の頑張らない生活が、私は大好きなのです。不完全な私のままで、自分のペースで生きていけるこの場所が、私の居場所ですから」
明確な、拒絶だった。
恨み言は一つもない。ただ、私たちの生きる世界と価値観が、もう完全に交わらないのだという事実だけを伝えた。
エドワード殿下は伸ばしかけた手を空中で震わせ、やがて力なく下ろした。
彼の目から光が消え、深い諦めが落ちる。
「……そうか。君はもう、俺の知る君ではないのだな。いや、俺が君の本当の姿を、一度も見ようとしていなかっただけか」
自嘲するように呟き、彼は深く一礼した。
「すまなかった。もう二度と、君の静かな生活を脅かすような真似はしない」
踵を返し、重い足取りで路地の闇へと消えていく彼の背中を、私は静かに見送った。
もう、振り返ることはない。
私を縛っていた過去の呪縛が、夜風に溶けて完全に消え去ったのを感じた。
「……見事な手綱捌きでしたね」
不意に、すぐそばの暗がりから温かい声が降ってきた。
振り返ると、ガス灯の淡い光の下に、アルヴィン様が立っていた。
彼は黒い外套を羽織り、優しい金色の瞳で私を見つめている。
「アルヴィン様。いつからそこに?」
「ずっと見ていました。もしあの男が貴女に無理強いをするようなら、実力行使に出るつもりで」
彼は少し悪戯っぽく微笑みながら歩み寄り、私の前に立った。
「ですが、心配することはなかった。貴女は私の助けなど必要ないほど、強く、美しい」
照れくさくて視線をそらすと、彼が突然、私の目の前で片膝をついた。
「アルヴィン様!?」
驚いて後ずさりそうになる私を、彼がそっと手を取って引き止める。
彼の大きく温かい手が、私の指先を優しく包み込んだ。
「エドワード殿下の言う通り、貴女の有能さは王宮にとって得難いものでしょう。ですが、私は貴女の完璧さを求めてはいない。緊張して変なことを口走る貴女も、猫を愛でて一日中微睡んでいる貴女も、すべてが愛おしい」
アルヴィン様の真っ直ぐな言葉が、私の心臓を甘く、激しく揺さぶる。
彼は私の手を自分の額に押し当て、熱を帯びた声で言った。
「不完全な君に、私の残りの人生を管理してほしい。私と結婚してください、リゼット」
時が止まったかのようだった。
彼の手の温もりが、私の全身に広がっていく。
誰かの期待に応えられなくても、私はこの人に愛されている。
頑張らなくても、私という存在を全肯定してくれる。
目の前が涙で滲み、彼の顔がぼやけた。
「……私、適当に手抜きをしますよ。たまに意味のわからない防御力の話とかしますよ」
涙声でそう言うと、彼は私の手首にそっと唇を落とした。
「望むところです。二人で一緒に、上手にサボりましょう」
私はポロポロと涙をこぼしながら、彼に向かって大きく頷いた。
「はい。喜んで、アルヴィン様」
完璧ではない私たちが、互いの不完全さを補い合う未来。
それは、どんな物語の結末よりも、確かな安心と幸福に満ちていた。




