第10話 努力しないで幸せになりたい悪役令嬢の、完璧じゃない結婚
アルヴィン様からのプロポーズを受けてから、半年が経った。
季節は巡り、底冷えのする冬を越え、王都は柔らかな春の陽気に包まれている。
私は今、かつてボロ家だったこの家の縁側に座り、ぽかぽかとした日差しを浴びていた。
公爵令嬢が上級貴族に嫁いだのだから、普通なら豪奢な貴族街の屋敷に住むのが常識だ。
しかし、私たちは話し合いの結果、この平民街の家を少しだけ改装して住み続けることにした。
隙間風を塞ぎ、屋根を直し、小さな庭にハーブを植えただけの、質素だが居心地の良い我が家だ。
近所の八百屋の奥さんたちとも、今まで通り「リゼット先生」と呼ばれながら仲良くやっている。
「リゼット、お茶が入りましたよ」
背後の引き戸が開き、エプロン姿のアルヴィン様が、湯気の立つカップを二つお盆に乗せて現れた。
「ありがとうございます、アルヴィン様。でも、今日は王宮の会議があったのでは?」
「ええ。ですが、あの手の会議は最後の決議だけ顔を出せばいいことに気づきまして。部下に任せて、適当に切り上げてきました」
彼は眼鏡の奥の金色の瞳を細め、悪戯っぽく笑った。
半年前に重度の過労で倒れていた彼とは、まるで別人だ。
顔色は良く、目の下のクマは完全に消え去っている。
私の「頑張らないコンサルティング」を素直に実践した結果、彼は見事に「上手にサボる」術を身につけたのだ。
そのおかげで魔力過多の呪いが再発することもなく、毎日こうして夕暮れ前には家に帰ってきてくれる。
アルヴィン様は私の隣に腰を下ろし、お茶の入ったカップを手渡してくれた。
温かい特産品の茶葉の香りが、春の風に乗って鼻腔をくすぐる。
一口飲むと、心がほどけるような優しい味がした。
「にゃあ」
足元で小さな声がした。
見下ろすと、一匹の黒猫が私のスカートの裾にすり寄ってきていた。
かつてアルヴィン様が姿を変えていた「ノワール」によく似ているが、これは正真正銘、近所に住み着いている本物の野良猫だ。
「いらっしゃい。今日もパトロールお疲れ様ですね」
私が手を伸ばして顎の下を撫でると、黒猫は目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
その頭を、アルヴィン様の大きな手が横から優しく撫でる。
「こうして猫を撫でていると、あの頃を思い出しますね」
アルヴィン様がぽつりと呟いた。
「毎晩貴女に撫でられながら、この温もりが永遠に続けばいいと、人間の姿に戻ることを少しだけ恐れていた頃を」
彼の言葉に、私の頬が熱くなる。
「もう……猫の姿にならなくても、私が毎日撫でてあげているじゃないですか」
「ええ。今は人間の姿のまま、貴女の隣でこうしてお茶を飲める。これ以上の幸福はありません」
彼は空いた手で、私の指先をそっと包み込んだ。
少しひんやりとした風が吹いたが、彼の手のひらは驚くほど温かかった。
誰かの期待に応えるためではなく。
自分を偽って完璧を演じるためでもなく。
ただ、自分が心地よいと思える人と、心地よい場所で息をしているだけ。
「私、今でもたまに不安になるんです」
私は彼の手を握り返しながら、視線を膝の上の黒猫に落とした。
「エドワード殿下の言う通り、私には令嬢らしい可愛げなんてないし、立派な奥様のように社交界であなたを支えることもできない。本当に、私で良かったのかって」
言葉にした途端、また胸の奥がキュッと締まる。
公爵家で植え付けられた呪縛は、そう簡単には完全に消えてくれない。
恥ずかしくて、緊張して、また謎の言葉が口を突いて出そうになった。
「だ、だからその、私の存在価値は、この庭に生えているタンポポの綿毛くらいの防御力しか……!」
「タンポポの綿毛は、風に乗ってどこまでも飛んでいき、新しい花を咲かせます。強靭な防御力ですよ」
私の意味不明な言葉を遮り、アルヴィン様は真面目な顔でそう答えた。
そして、ふっと柔らかく破顔した。
「リゼット。私は、完璧な奥様など求めていません。タンポポの防御力を語る貴女が、どうしようもなく愛おしいのです」
彼は私の肩を引き寄せ、私の髪にそっと唇を落とした。
「貴女はただ、私の隣で頑張らずに笑っていてください。それが私にとって、最大の救いなのですから」
彼の全肯定の言葉が、私の中の小さな不安の種を、春の雪のように溶かしていく。
「……アルヴィン様は、甘やかすのが上手すぎます」
「貴女専属ですから」
照れ隠しに私が彼の胸元に顔を埋めると、足元の黒猫が「やれやれ」といった風に小さく鳴いて、庭の向こうへと歩いていった。
私は目を閉じ、アルヴィン様の心臓の音をすぐそばで聞いた。
断罪され、婚約破棄されたあの日。
私はすべてを失ったと思っていた。
物語のルールに従って完璧に巻き返さなければ、悲惨な末路しか待っていないと信じていた。
でも、違ったのだ。
完璧じゃなくてもいい。不完全なままでも、私たちは幸せになれる。
逃げ出しても、上手にサボっても、世界はこんなにも美しくて優しい。
春の穏やかな日差しの中、私は大好きな人の腕の中で、世界で一番幸せなため息をついた。




