2話 王都の片隅で、黒猫と一緒に頑張らない生活を始めます
コンコンコン!
静寂を破る力強いノックの音に、私はびくっと肩を跳ねさせた。
立ち上がろうとした瞬間、膝の上で丸まっていた黒猫が素早く身を翻した。
「あ、待って……!」
手を伸ばすより早く、黒猫は割れた窓枠を軽やかに蹴り、外の路地へと姿を消してしまった。
せっかく「ノワール」という名前を付けようと思っていたのに。
『ごめんください。この家に、迷子の黒猫が入り込んでいませんか』
再び、扉の向こうから男性の声が響く。
私は慌ててスカートのシワを伸ばし、立て付けの悪い木の扉をギギィと開けた。
そこに立っていたのは、黒髪に銀縁の眼鏡をかけた長身の青年だった。
仕立ての良い漆黒の外套は、一目で上級貴族のものだとわかる。
だが、彼の顔色は酷く青白かった。
目の下には濃いクマが刻まれ、少しふらついているように見える。
「あの、黒猫をお探しですか?」
私が尋ねると、青年は眼鏡の位置を直し、深く頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。私はアルヴィンと申します。うちの……飼い猫が、こちらにご迷惑をおかけしたのではないかと思いまして」
飼い主がわざわざ平民街まで探しに来るなんて。
よほどあの黒猫を大切にしているのだろう。
私はホッと胸をなでおろした。
「迷惑だなんてとんでもない。さきほどまで私の膝で眠っていましたが、扉の音に驚いて窓から出て行ってしまいました。怪我などはしていませんでしたよ」
私の言葉を聞いたアルヴィン様は、なぜか目元を和らげ、深く安堵の息を吐いた。
「……それは、良かった。貴女の温かいお心遣いに感謝いたします」
彼の金色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
先ほどの黒猫と同じ色の瞳だ。
ふと、彼の視線が私の背後、埃だらけの室内へと向けられた。
「失礼ですが……貴女のような方が、なぜこのような場所に?」
無理もない疑問だ。
私の身なりはボロボロとはいえ、一応は公爵令嬢のドレスのままである。
私は少しだけ背筋を伸ばし、ありのままを伝えることにした。
「私は昨日、実家を出ました。これからは、ここで自分のペースで生きていく予定です」
「ご自分のペース、ですか」
「はい。成り上がろうとか、大金を稼ごうという気はありません。近所の方のお悩み相談に乗ったり、お部屋の片付けを手伝ったりして、その日暮らしの小銭をいただければ十分です。もう、誰かの期待に応えるために無理をするのはやめたのです」
言い切りながら、少し不安になった。
貴族社会の価値観からすれば、私の考えは「怠惰で向上心がない」と軽蔑されるものだ。
エドワード殿下のように、怒り出すかもしれない。
しかし、アルヴィン様は真剣な表情で頷いた。
「素晴らしい志だ。己の分を知り、他者の心に寄り添う。貴族の義務に縛られた私には、ひどく眩しく思えます」
「えっ……?」
予想外の褒め言葉に、私の顔が一気に熱くなる。
誰かに自分の生き方を肯定されたのは、これが初めてだった。
胸の奥がくすぐったくて、頭の中が真っ白になる。
何か気の利いた返事をしなければ。
焦れば焦るほど、口が勝手に動いてしまう。
「ね、猫の毛並みは世界の平和ですから!」
――やってしまった。
静まり返る路地裏。
私は両手で口を覆い、その場にしゃがみ込みたくなった。
極度の緊張と照れが混ざると、意味のわからない言葉が飛び出してしまうのは昔からの悪い癖だ。
エドワード殿下なら「何を馬鹿なことを言っている」と鼻で笑うだろう。
しかし、アルヴィン様は少し目を丸くした後、真面目な顔で顎に手を当てた。
「……なるほど。毛並みの手入れ、つまり日々の小さな平穏の積み重ねこそが、世界の平和に繋がるということですね。深いお言葉だ」
「ち、違います、そういう深い意味ではなくて……!」
「ご謙遜を。貴女の独自の視点には、ハッとさせられるものがあります」
彼は私の謎の発言を、見事に好意的な解釈で受け取ってしまった。
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
だが、彼が真面目に頷いた瞬間、その体がわずかにグラリと揺れた。
私は慌てて一歩前に出た。
「アルヴィン様、顔色が本当に悪いです。お休みなっていないのでは?」
「お恥ずかしい。ここ数日、公務が立て込んでおりまして……休む間も惜しんで処理しているのですが、一向に終わらないのです」
彼の言葉には、悲痛な響きがあった。
それは、昨日までの私と同じだ。
完璧でなければならないと自分を追い詰め、すり減っていく人間の姿だった。
「そんなの駄目です。人間は、猫のように適度に丸まって眠る時間が必要です」
私は気がつくと、彼を真っ直ぐに見上げてそう告げていた。
アルヴィン様は少し驚いたように私を見つめ返し、やがてふっと、憑き物が落ちたように柔らかな笑みをこぼした。
「貴女の言葉は、不思議と心に染み込みます」
彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、居住まいを正した。
「厚かましいお願いですが……私の膨大な公務の『効率化』について、貴女のその視点から相談に乗っていただけないでしょうか」
私は瞬きを繰り返した。
成り上がらないと決めた初日に、まさか上級貴族様から仕事の相談を持ちかけられるなんて。
だが、彼の目の下のクマを放っておくことは、どうしてもできなかった。




