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毎晩モフっていた黒猫が、お疲れの青年貴族様でした  作者: くうちゃんママ


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2/10

2話 王都の片隅で、黒猫と一緒に頑張らない生活を始めます

コンコンコン!


静寂を破る力強いノックの音に、私はびくっと肩を跳ねさせた。

立ち上がろうとした瞬間、膝の上で丸まっていた黒猫が素早く身を翻した。

「あ、待って……!」

手を伸ばすより早く、黒猫は割れた窓枠を軽やかに蹴り、外の路地へと姿を消してしまった。

せっかく「ノワール」という名前を付けようと思っていたのに。


『ごめんください。この家に、迷子の黒猫が入り込んでいませんか』

再び、扉の向こうから男性の声が響く。

私は慌ててスカートのシワを伸ばし、立て付けの悪い木の扉をギギィと開けた。


そこに立っていたのは、黒髪に銀縁の眼鏡をかけた長身の青年だった。

仕立ての良い漆黒の外套は、一目で上級貴族のものだとわかる。

だが、彼の顔色は酷く青白かった。

目の下には濃いクマが刻まれ、少しふらついているように見える。


「あの、黒猫をお探しですか?」

私が尋ねると、青年は眼鏡の位置を直し、深く頭を下げた。

「突然の訪問をお許しください。私はアルヴィンと申します。うちの……飼い猫が、こちらにご迷惑をおかけしたのではないかと思いまして」

飼い主がわざわざ平民街まで探しに来るなんて。

よほどあの黒猫を大切にしているのだろう。

私はホッと胸をなでおろした。

「迷惑だなんてとんでもない。さきほどまで私の膝で眠っていましたが、扉の音に驚いて窓から出て行ってしまいました。怪我などはしていませんでしたよ」


私の言葉を聞いたアルヴィン様は、なぜか目元を和らげ、深く安堵の息を吐いた。

「……それは、良かった。貴女の温かいお心遣いに感謝いたします」

彼の金色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。

先ほどの黒猫と同じ色の瞳だ。

ふと、彼の視線が私の背後、埃だらけの室内へと向けられた。


「失礼ですが……貴女のような方が、なぜこのような場所に?」

無理もない疑問だ。

私の身なりはボロボロとはいえ、一応は公爵令嬢のドレスのままである。

私は少しだけ背筋を伸ばし、ありのままを伝えることにした。

「私は昨日、実家を出ました。これからは、ここで自分のペースで生きていく予定です」

「ご自分のペース、ですか」

「はい。成り上がろうとか、大金を稼ごうという気はありません。近所の方のお悩み相談に乗ったり、お部屋の片付けを手伝ったりして、その日暮らしの小銭をいただければ十分です。もう、誰かの期待に応えるために無理をするのはやめたのです」


言い切りながら、少し不安になった。

貴族社会の価値観からすれば、私の考えは「怠惰で向上心がない」と軽蔑されるものだ。

エドワード殿下のように、怒り出すかもしれない。


しかし、アルヴィン様は真剣な表情で頷いた。

「素晴らしい志だ。己の分を知り、他者の心に寄り添う。貴族の義務に縛られた私には、ひどく眩しく思えます」

「えっ……?」

予想外の褒め言葉に、私の顔が一気に熱くなる。

誰かに自分の生き方を肯定されたのは、これが初めてだった。

胸の奥がくすぐったくて、頭の中が真っ白になる。

何か気の利いた返事をしなければ。

焦れば焦るほど、口が勝手に動いてしまう。


「ね、猫の毛並みは世界の平和ですから!」


――やってしまった。

静まり返る路地裏。

私は両手で口を覆い、その場にしゃがみ込みたくなった。

極度の緊張と照れが混ざると、意味のわからない言葉が飛び出してしまうのは昔からの悪い癖だ。

エドワード殿下なら「何を馬鹿なことを言っている」と鼻で笑うだろう。


しかし、アルヴィン様は少し目を丸くした後、真面目な顔で顎に手を当てた。

「……なるほど。毛並みの手入れ、つまり日々の小さな平穏の積み重ねこそが、世界の平和に繋がるということですね。深いお言葉だ」

「ち、違います、そういう深い意味ではなくて……!」

「ご謙遜を。貴女の独自の視点には、ハッとさせられるものがあります」

彼は私の謎の発言を、見事に好意的な解釈で受け取ってしまった。

恥ずかしさで顔から火が出そうだ。


だが、彼が真面目に頷いた瞬間、その体がわずかにグラリと揺れた。

私は慌てて一歩前に出た。

「アルヴィン様、顔色が本当に悪いです。お休みなっていないのでは?」

「お恥ずかしい。ここ数日、公務が立て込んでおりまして……休む間も惜しんで処理しているのですが、一向に終わらないのです」

彼の言葉には、悲痛な響きがあった。

それは、昨日までの私と同じだ。

完璧でなければならないと自分を追い詰め、すり減っていく人間の姿だった。


「そんなの駄目です。人間は、猫のように適度に丸まって眠る時間が必要です」

私は気がつくと、彼を真っ直ぐに見上げてそう告げていた。

アルヴィン様は少し驚いたように私を見つめ返し、やがてふっと、憑き物が落ちたように柔らかな笑みをこぼした。


「貴女の言葉は、不思議と心に染み込みます」

彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、居住まいを正した。

「厚かましいお願いですが……私の膨大な公務の『効率化』について、貴女のその視点から相談に乗っていただけないでしょうか」


私は瞬きを繰り返した。

成り上がらないと決めた初日に、まさか上級貴族様から仕事の相談を持ちかけられるなんて。

だが、彼の目の下のクマを放っておくことは、どうしてもできなかった。


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