第1話 婚約破棄されたので巻き返そうとしましたが、即座に諦めました
冷たい風が、隙間だらけの窓枠から容赦なく入り込んでくる。
私は薄暗い部屋の中で、古びた木の椅子に腰を下ろした。
カビと埃の混じった匂いが鼻を突く。
遠くから、平民街特有の荷車の車輪の音と、人々の喧騒が聞こえてきた。
ここは王都の端にある小さな空き家だ。
実家である公爵家が所有していた、ほとんど忘れ去られた物件である。
私はさきほど、最低限の着替えだけが入った鞄ひとつでこの家に放り込まれた。
昨晩、私は王太子のエドワード殿下から婚約破棄を言い渡された。
学園の卒業記念パーティーの最中の出来事だった。
『リゼット、君には可愛げというものがない。正論ばかりで息が詰まる。私の婚約者には相応しくない!』
シャンデリアの眩しい光の下で、彼はそう宣言した。
彼の金髪は揺れ、私を見下ろす瞳には明らかな嫌悪が浮かんでいた。
周囲の貴族たちは扇で口元を隠し、私を冷ややかな目で見ていた。
ヒソヒソと囁き合う声は、私を嘲笑していた。
私はその場に立ち尽くし、何も言い返すことができなかった。
実家の父からも「公爵家の恥だ」と冷酷に言い捨てられた。
そして夜が明ける前に馬車に押し込められ、この平民街に捨てられたのだ。
膝の上で、両手をぎゅっと握りしめる。
「このままじゃ、駄目よね……」
ぽつりと呟いた声は、がらんとした部屋に虚しく響いた。
私の頭の中には、少し前から蘇っていた「前世の記憶」がある。
ここは、私が前世で読んだ物語の世界にそっくりだ。
物語の中で、断罪された悪役令嬢は悲惨な末路を辿る。
修道院の冷たい石室で一生を終えるか、路地裏で倒れる運命だ。
「断罪されたなら、完璧に巻き返さなければいけない。それが物語の正義ですから」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
鞄の中から、羊皮紙とインク壺、羽ペンを取り出す。
ガタガタと揺れる机の上に広げた。
「まずは事業計画です。平民街で成功を収め、自立した有能な女性として見返してやります」
ランプの小さな火を点け、私はペンを走らせ始めた。
平民街の需要予測。
特産品である茶葉の流通経路の開拓。
貴族相手の商売は今の身分では不可能だ。まずは近隣の住人をターゲットにする。
頭の中にある中途半端な知識を総動員して、文字を書き連ねていった。
窓の外が白み始めるまで、私は机に向かい続けた。
しかし、数時間が経過した頃。
私の手は完全に止まっていた。
「……何をどうすればいいのか、全くわかりません」
羊皮紙には、文字の羅列が並んでいるだけだ。
現実の商売のやり方なんて、公爵令嬢として屋敷の中にいた私にわかるはずもない。
前世の記憶といっても、ただの物語のあらすじを覚えているだけ。
具体的な知識など何一つないのだ。
焦りが募り、呼吸が浅くなる。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
完璧にやり遂げないと。
エドワード殿下に笑われたままなんて嫌だ。
実家の父にも見返してやらなきゃ。
プレッシャーが重くのしかかり、ペンを持つ手が小刻みに震える。
インクがポタッと羊皮紙に落ちて、真っ黒な染みを作った。
その染みを見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツンと音を立てて切れた。
「……あ、もう無理です」
気がついたときには、ペンを放り投げて机に突っ伏していた。
冷たい木の感触が頬に伝わる。
「私、もともと裏方でちまちま作業するのが好きなだけです。完璧な令嬢なんて、ずっと息が詰まってました」
エドワード殿下の言う通りだ。
私には野心もないし、可愛い笑顔も作れない。
ただ、怒られないように、失敗しないように、必死に背伸びをして完璧を取り繕っていただけだった。
「頑張るの、やめよう……」
ため息と一緒に、そんな言葉がこぼれ落ちた。
そう口にした瞬間、肩に乗っていた重い石が転がり落ちた気がした。
ガタッ。
不意に、窓辺で小さな音がした。
顔を上げると、割れた窓ガラスの隙間から、黒い影がこちらを覗き込んでいる。
「……猫?」
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。
毛並みはボロボロで、うっすらと埃をかぶっている。
金色の瞳が、じっと私を見つめていた。
足元がふらついており、ひどく疲労している様子だった。
私はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づいた。
「迷子ですか? お腹が空いているんですか?」
そっと手を伸ばす。
黒猫は逃げることなく、私の指先に冷たい鼻先を押し当ててきた。
そのまま、ゴロゴロと低い喉の音を鳴らして私の手に頭を擦り寄せる。
「ふふ、人懐っこいですね」
抱き上げると、黒猫は羽のように軽かった。
ひんやりとした部屋の中で、その小さな体温だけが確かな熱を持っている。
私は椅子に座り直し、膝の上で黒猫を撫で始めた。
指先から伝わる柔らかい毛並みの感触。
耳元で響く、規則的な喉の音。
「可愛い……」
自然と頬が緩む。
昨晩の婚約破棄のショックも、先ほどまでの焦りも、夜風に吹かれたように消えていった。
「あなたは何も言わずに私を受け入れてくれますね」
黒猫の背中を撫でながら、私は語りかけた。
エドワード殿下は私に完璧な笑顔を求めた。
父は私に公爵家としての利益を求めた。
けれど、この小さな命は、ただ私の膝の上で安心して眠ろうとしている。
それだけで十分だ。
「私、決めました」
眠りに落ちかけた黒猫の耳元で、そっと囁く。
「もう、誰かのために完璧になるのはやめます。これからは、私のペースで、頑張らない生活を始めます」
成り上がらなくたっていい。
誰かを見返してやらなくたっていい。
ただ、この黒猫と一緒に、静かに穏やかに生きていければ、それでいい。
そう決意すると、目の前がぱあっと明るくなった。
徹夜の疲労と安心感がどっと押し寄せてきて、私は机に突っ伏したまま、黒猫と一緒に眠りに落ちた。
翌朝。
小鳥のさえずりと、窓から差し込む眩しい朝日の中で目を覚ました。
「ん……よく寝たわ」
背伸びをして、膝の上を見る。
黒猫はまだ気持ちよさそうに丸まっていた。
これからどうやって生活資金を稼ぐか。
そんなことは起きてからゆっくり考えればいい。
まずはこの子を洗ってあげて、名前をつけて、それから残った固いパンでもあげよう。
のんびりとした未来に思いを馳せ、私が微笑んだその時だった。
コンコンコン!
静寂を破るように、玄関の扉が力強く叩かれた。
「……え?」
びくっと肩を揺らす。
こんな王都の片隅のボロ家に、私を訪ねてくる人間なんていないはずだ。
実家の使いだろうか。それとも借金取りの類だろうか。
胸の奥がざわついた。
『ごめんください。この家に、迷子の黒猫が入り込んでいませんか』
扉の向こうから聞こえてきたのは、ひどく丁寧で、それでいてひどく疲労の滲んだ、若い男性の声だった。
膝の上の黒猫が、ぴくりと耳を動かした。




