88 狂気
中学生になった。真新しい紺色の制服に慣れてきた四月の、ある昼休み――。
教室の自分の席から、じっと……龍君を見ていた。
いつものように、雪絵ちゃんが彼を呼んでいる。
廊下へ出て行く二人の後を追う。
廊下の窓の側で話している彼らを、廊下の教室側から見つめる。
雪絵ちゃんが私に気付いた様子で、こっちを向く。声を掛けられる。
「あら? 由利花。怖い顔で睨んでくるのね?」
睨んでいるつもりはないのに。
でも。眉間に力が入ってしまうのは、今はどうしようもないと思う。
彼女はニコッと笑んで、言い及ぶ。
「そんなに……鈴谷君を取られたのが嫌だったの?」
一瞬だけ、動揺した。ハッと強張った表情を戻し、平静を装う。口にする。
「大丈夫」
ニコッと笑い宣告する。
「絶対に、取り返すから!」
歯を食いしばって、涙を堪える。
教室から出て来た咲月ちゃんが、私と雪絵ちゃんを交互に見ている。
「由利花ちゃん……」
咲月ちゃんが、眉をひそめて呟く。心配してくれていると伝わる。
刹那……抑えていた感情が溢れて、頽れそうになる。堪らずに駆け出す。
階段を上り、屋上の端でしゃがむ。
「ううーっ」
少しして、追って来てくれた咲月ちゃんの声が耳に届く。
「由利花ちゃん……」
彼女も涙目になっている。
咲月ちゃんと一緒に、沢野君も来てくれた。普段は綺麗な面持ちが、今は険しく歪んでいる。
「許せない」
彼は言い置いて、階段を下って行く。
私と咲月ちゃんは顔を見合わせる。大変な事態になりそうな予感がする。背筋がヒヤッとして、慌てて階段を下る。
教室前の廊下へ戻って来た。龍君と雪絵ちゃんの前に、沢野君がいる。仁王立ちで。
何か一悶着あった後の雰囲気が、周囲に漂っている気がする。ほかの……関係のないクラスメイトたちも、遠巻きに彼らを見守っている。
雪絵ちゃんの視線が、私へ向く。彼女の目がニヤリと笑む。次の瞬間――。
「由利花ちゃん、ダメッ!」
咲月ちゃんの手が、私の目を塞ぐ。だけど……指の隙間から見えた。
雪絵ちゃんと龍君のキスシーン。
雪絵ちゃんの手で、二人の口元は隠れていたけど。
身体の奥底で、衝動が生まれる。凍て付いた炎が弾け飛ぶ如き一閃を、瞬きの内に静める。外には出さないそれが蠢く度に、胸がざらざらと疼く。
心が抉られるとは、この事だと……薄らと浮かぶ一握りの言葉が、意識の海に溶ける。
「自分は、こんなに醜い思いを抱ける人間だったのだ」と、「それでもいいと……衝動を許したくなる、浅慮な性質の持ち主だったのだ」と知る。
己を割と善い部類の人間だと、心のどこかで安堵していた認識に大きく罅が入る。汚い。
醜悪な面も、十分に持ち合わせているのに。忘れて……目を向けずに、生きていただけだった。二人を許せない。
瞼を閉じる。既に涙を流してしまっていたけれど。
瞳を上げる。
胸の奥に燃える冷たい怨嗟を、外へ漏らさないように。ありったけの力で抑える。
何かの表情を作ろうとすれば、決壊しそうだった。
……好きな人がいる。
誰かを不幸にしてしまうとしても。
望んでしまう。
もう後悔しないと決めたのに。まだ迷っているのは、優しいからじゃない。自分にとってのベストを探している。
ここで諦めてしまったら。また不幸にしてしまう。自分も。雪絵ちゃんも。
一度目の人生で。片想いしていた志崎君へ告白できなかった後悔を、聞いてくれたよね。一緒に悲しんでくれた。
今、普段の彼女と違う様相を見せられて。親友が……何かに苦しんでいるように思えてならない。
近頃の雪絵ちゃんは。私とだけじゃなく、咲月ちゃんとも距離を置いている。
ずっと引っ掛かっている。雪絵ちゃんは以前、沢野君が苦手だと言っていた。彼女が時々、咲月ちゃんへ向ける……少し悲しそうな視線の意味を考える。口を衝く。
「もしかして。雪絵ちゃん……。本当は、鈴谷君じゃなくて…………沢野君が好きなの?」
雪絵ちゃんの目が大きく見開かれる。
側にいる人々が息を呑み、私と雪絵ちゃんを窺っている。
彼女から視線を逸らさずにいた。
「フッ……バカね……。私が、彼を好きな訳ないでしょう?」
相手の声が震えている。
動揺している?
相当に怒っている気配が伝わってくる。
「彼とは、婚約しているだけよ」
「そう……。婚約しているだけ…………。えっ? 婚約っ?」
言い渡された事案を認識して、思わず聞き返す。
『えーっ!』
周囲の皆も、どよめく。
振り向いて咲月ちゃんを見る。青ざめた顔をしている様子に、心配が膨らむ。




