第九章 男爵令嬢の告白
ある雨上がりの午後、公爵邸の門番から、思いがけない来客の知らせが届いた。
訪れたのは、供も連れず、質素な外套に身を包んだ、リリア・ベルモンド嬢その人だった。
変わり果てたその姿に、私は一瞬、言葉を失いかけた。
かつて夜会の壇上で涙を流していた華やかな令嬢の面影は、もうどこにも見当たらない。
頬はこけ、瞳の下には濃い隈が浮かんでいる。
それでも私は、動揺を表に出さないよう努めながら、彼女を応接室へと招き入れた。
思えば、私が最後に彼女を間近で見たのは、あの夜会の壇上だった。
煌びやかなドレスに身を包み、涙を武器に周囲の同情を集めていた彼女と今、目の前で肩を落としている彼女とは、まるで別人のように見えた。
人は置かれた場所によって、これほどまでに姿を変えるものなのかもしれない。
応接室に通した彼女は、椅子に腰を下ろすなり、深く頭を下げた。
「エレオノーラ様、突然の訪問をお許しください」
その声は、以前会場で見た、涙を武器にしていた頃の彼女とはまるで違っていた。
疲れ切った、けれどどこか吹っ切れたような響きがあった。
「王宮での暮らしに、耐えられなくなりました」
彼女はぽつりと、そう切り出した。
婚約者としての重圧、周囲からの嫉妬、そして何より、自分の言葉が誰にも信じてもらえない孤独。
それらを、訥々と語り始めた。
侍女に温かい茶を用意させ、彼女の震える手にそっとカップを持たせた。
湯気の立つ茶を一口含み、リリア嬢はようやく少し落ち着きを取り戻したようだった。
華やかに見えた王太子妃候補という立場も、彼女にとっては、逃げ場のない檻でしかなかったのかもしれない。
私は口を挟まず、ただ静かに耳を傾けた。
彼女がどのような経緯でここに至ったのか、その全てを知りたかった。
一通り話し終えたリリア嬢は、意を決したように顔を上げ、深く頭を下げた。
「エレオノーラ様、これまで本当に申し訳ございませんでした」
「私は、知らず知らずのうちに、あなた様を貶める側に立っていたのだと思います」
私は静かに首を振った。
「謝罪は、必要ありません」
「それより、聞かせてください、何があったのですか」
私の言葉に、リリア嬢は少し驚いたような顔をした後、ゆっくりと語り始めた。
「私を利用していた人たちがいます」
その一言に、私はこれまでの推測が確信に変わっていくのを感じた。
「王宮に上がる少し前から、ある方々が、私に近づいてくださいました」
「殿下に気に入られる方法や、社交界での立ち回り方を、丁寧に教えてくださったのです」
「今思えば、それはすべて、宰相派に近い貴族の方々でした」
淡々と語られるその内容は、私がこれまで独自に調べ上げてきた事実と、驚くほど一致していた。
彼女は、自分が誰かに利用されているとは、当時まったく気づいていなかったのだという。
貧しい家を救いたいという一心がいつの間にか、他人の計画の一部に組み込まれていた。
「ですが、黒幕と呼べるような人物の正体までは、私には分かりません」
「ただ、指示を出していた方々の、さらに上に誰かがいるような、そんな気配だけは感じておりました」
その言葉に、私はやはりという思いを抱いた。
宰相派の貴族たちもまた、より大きな存在の駒に過ぎないのかもしれない。
三年前から追い続けてきた影の輪郭が、少しずつ、けれど確実に近づいてきている。
私はリリア嬢の手を、そっと取った。
「あなたも、被害者だったのでしょう」
その一言に、リリア嬢の瞳から、堪えきれなかった涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
「そんな風に言っていただけるとは、思っていませんでした」
しばらく涙を拭った後、リリア嬢は懐から一通の手紙を取り出した。
「これを、エレオノーラ様にお渡ししようと思って参りました」
差し出された手紙を、私は静かに受け取った。
封に記された差出人の名を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは――王太子付きの側近の名前だった。
側近という立場であれば、宰相派の貴族たちと王太子本人との橋渡し役を担っていても、何ら不思議ではない。
これまで断片的にしか見えていなかった構図が、この一通の手紙によって、大きく像を結ぼうとしていた。
手紙の中身を確かめる前から、これが単なる私信でないことは、なんとなく分かっていた。
リリア嬢の背後にいる者たちの正体に、ようやく手が届くのかもしれない。
そんな予感が、静かに、けれど確かに、胸の中で広がっていった。
窓の外では、雨上がりの陽射しが、庭の水たまりを静かに照らしていた。
リリア嬢はしばらく公爵邸に留まり、心と体を休めていくことになった。
彼女を守ることもまた、この先の戦いの、大切な一手になるはずだった。




