第十章 黒幕
リリア嬢から預かった手紙を、私はすぐには開かなかった。
中身を確かめる前に、まず誰の目にも触れさせぬよう、厳重に保管する必要があると判断したからだ。
その夜、屋敷の者たちが寝静まった頃、私は自室にこもり、蝋燭の灯りの下で、ようやく封を切った。
手紙には、暗号めいた短い文言が並んでいた。
けれど、これまで三年間、王国の財政資料を読み解いてきた目には、その文言の意味するところが、少しずつ浮かび上がって見えた。
特定の日付、特定の金額、そして特定の家名を示す符丁。
それらは、私が独自に集めてきた不正流用の記録と、驚くほど正確に重なり合っていた。
符丁の一つは、数字を特定の規則でずらして読み替える、単純ながらも見破りにくい暗号だった。
幼い頃、外交儀礼の一環として学んだ古い暗号術の知識が、こんな形で役立つとは思ってもみなかった。
一文字ずつ、根気強く置き換えていくうちに、意味のある単語が浮かび上がってくる。
その作業は、まるでかつて父から教わった詰将棋のように、一手ごとに全体の形が見えてくる感覚があった。
私は机の引き出しから、これまで三年かけて積み上げてきた資料の束を取り出した。
徴税記録、貴族家の収支、そして王宮の支出報告。
手紙の符丁と照らし合わせながら、一つ一つの数字を、丁寧に辿り直していく。
夜が更けるにつれて、机の上に広がる資料の量は、次第に増えていった。
そして夜明け近く、私はついに、これまで断片でしかなかった全体像を、一つの絵として描き出すことに成功した。
宰相と、王太子付きの側近の一部が、長年にわたって王国の税収を横領していた。
その資金の流れは、複数の貴族家を経由することで、巧妙に痕跡を消されていた。
けれど、もう一つの符丁が示していたのは、それだけではなかった。
横領された資金の一部が、国境を越え、敵対関係にある隣接国へと流れていたのだ。
その事実に辿り着いたとき、私は思わず手を止めた。
単なる私腹を肥やすための横領ではない。
これは、外部と結びついた、もっと大きな計画の一部だった。
資料を突き合わせるうちに、その目的も、朧げながら見えてきた。
王国の税収を密かに奪い続けることで、財政基盤を少しずつ弱体化させる。
そして経済が限界を迎えた頃合いを見計らい、意図的に国境紛争を誘発し、王国を混乱に陥れる。
その混乱に乗じて、敵国側は領土や利権を拡大し、国内の黒幕たちは、王国内での権力をさらに強めるつもりだったのだろう。
私は椅子の背にもたれ、しばらく天井を見上げていた。
三年前、私が最初にこの財政の異常に気づいたとき、まだここまでの全貌は見えていなかった。
けれど今なら分かる。
なぜ、私の警告があれほど徹底的に退けられたのか。
なぜ、リリア嬢という駒が、あれほど巧妙に王太子の側へ送り込まれたのか。
なぜ、あの夜会で、婚約破棄という筋書きが用意されていたのか。
答えは、単純だった。
王国の異常に気づき、独自に調査を進めていた私こそが、彼らの計画にとって、最大の障害だったのだ。
だからこそ、私を王太子の側から排除する必要があった。
婚約破棄は、私への罰でも、王太子の気まぐれでもない。
最初から仕組まれた、計画の一部だったのだ。
思えば、あの夜会での出来事の一つ一つにも、不自然な点があった。
エドワード様が、あれほど唐突に、大勢の前で婚約破棄を宣言したこと。
リリア嬢が、絶妙な間合いで涙を流し、周囲の同情を集めたこと。
そのすべてが、あらかじめ用意された筋書き通りに進んでいたのだとしたら。
私という駒を、いかにも本人の意志であるかのように、王宮の外へ弾き出す。
それこそが、婚約破棄という一幕の、本当の目的だったのだ。
その確信に辿り着いたとき、不思議と怒りは湧いてこなかった。
あったのは、むしろ静かな納得だった。
私が王宮を追われたのではない。
私は、彼らの計画に、まんまと利用されかけていた。
そして結果的に、その計画の外側へと弾き出されたことで、逆に自由な立場で真実に近づくことができた。
皮肉としか言いようのない巡り合わせだった。
手紙を書いた側近が、なぜこのような重要な符丁をリリア嬢に託していたのか。
おそらく、彼自身も計画の全貌までは知らされておらず、良心の呵責から、いつか誰かに真実を託そうとしていたのかもしれない。
あるいは、追い詰められた末の、せめてもの抵抗だったのだろうか。
真意は分からないが、その一通の手紙が、私を核心へと導いたことだけは確かだった。
夜が完全に明けきる頃、私は集めた証拠を整理し、封筒に厳重に収めた。
これを、いつ、どのようにして表に出すべきか。
急ぎすぎれば、証拠を隠滅されかねない。
けれど、悠長に構えている時間も、おそらく残されていない。
慎重に、けれど確実に、次の一手を打つ必要があった。
息を切らせて駆けつけた父は、私の部屋に広がる資料の山を目にし、一瞬言葉を失った。
「これは……」
私は手短に、これまでの経緯を説明した。
宰相と側近たちの横領、敵国との密通、そして婚約破棄そのものが、私を排除するための計画だったという事実を。
聞き終えた父は、しばらく黙り込んだまま、拳を固く握りしめていた。
「……とんでもないことに巻き込まれていたのだな」
父の声には、怒りと、そしてどこか安堵にも似た響きが混ざっていた。
「だが、お前がその輪から抜け出せていたことだけは、不幸中の幸いだった」
私は静かに頷いた。
「ええ。ですが、抜け出せただけで、終わりにはできません」
そう考えを巡らせていた矢先のことだった。
屋敷の外から、けたたましい馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
こんな早朝に、これほど急いで駆けてくる馬など、ただ事ではない。
私は資料を素早く隠し、身なりを整える間もなく、玄関へと向かった。
息を切らせて駆け込んできたのは、国境付近の視察に出ていたはずの家臣の一人だった。
その顔は蒼白で、声はひどく震えていた。
「申し上げます」
「東の国境より、敵国軍が越境したとの一報が入りました」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、昨夜整理したばかりの全ての符丁が、一気に一つの結末へと繋がった。
これは偶然ではない。
おそらく、彼らの計画は、すでに最終段階に入っている。
王国の財政が限界に近づいた今この時こそ、動くべき時だと、彼らは判断したのだろう。
私はしばらく、玄関先に立ち尽くしたまま、動けずにいた。
三年間、静かに積み上げてきた調査が、こんな形で試される日が来るとは、想像していなかった。
けれど、迷っている時間はない。
私は深く息を吸い込み、家臣に向かって、はっきりと告げた。
「父上をお呼びして」
「それから、王都の情報網にも、至急、確認を取ってください」
父は、報告に来た家臣にすぐさま指示を飛ばし、領内の守備隊にも警戒態勢を敷くよう命じた。
屋敷全体が、これまでにない緊張感に包まれていくのが分かった。
私は改めて、手元の資料を封筒に収め直しながら、深く息を整えた。
この証拠を、どこへ、どのタイミングで届けるべきか。
敵国の越境という事態は、皮肉にも、黒幕たちの計画がすでに動き出した証でもある。
ならば、こちらも悠長に構えている余裕はない。
家臣が慌ただしく駆け出していくのを見送りながら、私は朝焼けに染まり始めた空を見上げた。
静かだった日々は、今この瞬間から、大きく形を変えようとしている。
その予感だけが、確かに、胸の奥で脈打っていた。




