第十一章 王国からの救援要請
敵国軍の越境から、事態は驚くほどの速さで動いていった。
情報網からの報告が、次々と公爵邸に届けられる。
王国は正式に戦争状態に入り、各地から兵が招集されているという。
けれど、その報告の端々からは、楽観できない状況が透けて見えた。
王軍の動員は、想像以上に混乱していた。
兵糧の備蓄は乏しく、武具の手配も後手に回っている。
何より深刻だったのは、前線への補給路そのものが、満足に機能していないという事実だった。
長年、輸送や物流の整備を怠ってきたつけが、この非常時に、一気に表面化していた。
エドワード様は、王太子として自ら前線へ赴くことを選んだという。
その報せを聞いたとき、私は複雑な感情を抱いた。
剣を取ることに関しては、誰よりも優れた人だ。
けれど、戦は個人の武勇だけで決まるものではない。
前線に到着したエドワード様は、そこで初めて、兵站がまともに整っていない現実を、身をもって知ることになったという。
食料も、矢も、まともに前線まで届かない。
これまで王都で見ていた華やかな軍事演習とは、まるで違う光景が、そこには広がっていた。
部隊の一部は、すでに数日分の食料しか手元にないという報告も、情報網には記されていた。
情報網の報告には、前線の惨状を伝える数字も並んでいた。
兵の三割近くが、満足な食事を与えられていないという。
負傷者を運ぶための馬車すら不足し、後方への搬送が滞っているとも記されていた。
数字として並ぶそれらの惨状は、かつて私が財政資料の中に見出した、あの不吉な予兆の、行き着いた先の姿だった。
情報網からの報告には、こんな一文もあった。
「かつてアーデルハイト公爵領が担っていた物流網が、王軍の輸送計画の根幹を支えていたようです」
その一文を読んだとき、私は思わず苦笑してしまった。
私が公爵領のために築き上げてきた道と港と流通の仕組みは、知らぬ間に、王国の軍事物流の土台にもなっていたのだ。
それを失った今、王国が窮地に陥るのは、ある意味で当然の帰結だった。
皮肉にも、私を切り捨てた選択そのものが、王国自身の足元を崩していたことになる。
公爵領内でも、この報せを受けて、空気が変わり始めていた。
市場に出れば、王国の戦況を案じる領民たちの声が、あちこちで聞こえてくる。
中には、王国から逃れてきたばかりの者たちもいて、彼らの表情には、複雑な感情が入り混じっていた。
見捨てられた王国を、それでも案じずにはいられない。
その矛盾した心情は、おそらく私自身のものとも、どこかで重なっていた。
そして数日後、ついに公爵邸の門を、王家の紋章を掲げた馬車が再び訪れた。
今度の使者は、以前とは違い、これまでの尊大さを微塵も感じさせない、憔悴しきった様子の高官だった。
馬車から降り立つその足取りは重く、纏う衣服にも旅の疲れが色濃く滲んでいた。
応接室に通されるなり、彼は深々と頭を下げた。
「アーデルハイト公爵、そしてエレオノーラ様」
「どうか、王国にお力をお貸しいただけないでしょうか」
その懇願に、隣に座っていた父の表情が、瞬時に険しくなった。
「娘を追い出しておいて、今さら助けてくれだと?」
父の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
使者は何も言い返せず、ただ深く頭を下げ続けるばかりだった。
その姿には、以前公爵領を訪れたあの尊大な文官の面影は、もうどこにもなかった。
私は静かに、父の腕にそっと手を添えた。
「お父様」
短くその名を呼ぶと、父はこちらを一瞥し、それでも収まらない怒りを抑えるように、深く息を吐いた。
私は使者に向き直り、努めて静かな声で問いかけた。
「王軍の現状を、詳しく教えていただけますか」
使者は、震える声で説明を始めた。
兵糧の不足、輸送路の寸断、そして前線で孤立しつつある部隊のこと。
話を聞くほどに、事態の深刻さが、はっきりと浮かび上がってきた。
このままでは、遠からず前線が崩壊しかねない。
使者の言葉の端々からも、その焦燥がありありと伝わってきた。
説明を聞き終えた私は、しばらく沈黙した。
頭の中では、既に幾つもの選択肢が浮かんでいた。
このまま黙って見過ごすことも、可能ではある。
私を切り捨てた王国の末路を、ただ静かに見届けるという選択肢も。
けれど――。
目を閉じると、脳裏に浮かぶのは、王家への恨みなどではなかった。
かつて王都で見た、名も知らぬ人々の暮らし。
戦火に巻き込まれれば、真っ先に犠牲になるのは、いつだって、何の力も持たない民たちだ。
それに、公爵領へ逃れてきた人々の中にも、前線に家族を送り出したという者が、少なくなかった。
私はゆっくりと目を開け、使者を見据えた。
「少し、考える時間をいただけますか」
その言葉に、使者は縋るような目で頷いた。
父は、まだ納得のいかない表情を浮かべていた。
「本気で、助けるつもりなのか」
私はまっすぐに父を見つめ返した。
「まだ、決めてはいません」
「ですが、少なくとも、話を聞かずに切り捨てるつもりもありません」
父はしばらく私の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……お前の判断に任せる」
使者を見送った後、リリア嬢が静かに部屋を訪れた。
彼女もまた、王都からの報せに、思うところがあったのだろう。
「エレオノーラ様は、王国をお助けになるのですか」
その問いに、私はまだ答えを持っていなかった。
「分かりません」
「ですが、少なくとも、恨みだけで判断するつもりはありません」
リリア嬢は、しばらく私の顔を見つめた後、小さく頷いた。
「私にできることがあれば、何でもおっしゃってください」
その言葉には、以前のような怯えではなく、確かな意志が宿っているように感じられた。
使者を客間へと下がらせた後、私は一人、執務室の窓辺に立った。
王国という船は、今まさに沈みかけている。
その船に、かつて自分も乗っていたという事実。
そして今、その船の行く末を左右できる立場に、自分が立っているという事実。
三年前、あの財政資料を見つけたときには、想像もしていなかった巡り合わせだった。
窓の外に広がる公爵領の景色を眺めながら、私は静かに、けれど確かな決意を固め始めていた。
老執事もまた、静かに私の背後に控えていた。
「決断を急がれる必要はございません」
「ですが、決断された後は、迷わず進まれることです」
その助言に、私は小さく笑みを返した。
「肝に銘じます」
答えを出すのは、まだ少しだけ、先でいい。
けれど、その答えの輪郭は、すでに私の中で、形を成しつつあった。
アルベルト様にも、この一件はいずれ伝わるだろう。
隣国の王太子として、彼がこの状況をどう見るのか。
そのことも、頭の片隅で、静かに気にかかっていた。




