第十二章 それでも私は助ける
一晩、静かに考え抜いた末、私は答えを出した。
あの夜私は執務室の窓辺に立ったまま、これまでの三年間を、もう一度静かに振り返っていた。
王家を見限り、独自の道を歩み始めたあの日から、私は一度も後悔したことはない。
けれど、恨みを晴らすことと、目の前で苦しんでいる人々を見捨てることとは、まったく別の話だった。
どちらの道を選んでも、後になって自分を責める理由が残る。
ならば、より多くの人の命を守れる道を選ぶべきだと、私は静かに結論を下した。
朝を待って、父と使者を執務室に呼び、私ははっきりと告げた。
「お力添えします」
その一言に、使者は安堵のあまり、涙ぐみそうな表情を浮かべた。
けれど私は、続けて言葉を重ねた。
「ただし、誤解のないように申し上げておきます」
「私は、王家を助けたいわけではありません」
使者の表情が、わずかに強張る。
私は構わず続けた。
「戦場にいる兵士たちと、その家族を助けたいのです」
「彼らに、王家の判断の責任を負わせるつもりはありません」
その言葉に、父が静かに頷くのが分かった。
復讐のために、罪のない人々を犠牲にすることだけは、私の望むところではない。
その一線だけは、どんな状況であっても、譲るつもりはない。
決断が固まってからの動きは、驚くほど速かった。
公爵領で整備してきた港と輸送網を、そのまま前線への補給路に転用する。
蓄えてきた食料と物資を、優先順位をつけて振り分けていく。
これまで積み上げてきた三年間の準備が、こんな形で役立つとは、正直なところ予想していなかった。
商人たちにも協力を仰いだ。
低利融資で恩を売ってきた者たちが、今度は自らの馬車と人手を差し出してくれた。
信頼というものは、こういう時にこそ、真価を発揮するものなのかもしれない。
わずか数日のうちに、公爵領全体が、一つの補給拠点のように機能し始めていた。
港からは、穀物と保存食を優先的に積み出す。
鉱山で得た資材は、負傷者を運ぶための担架や、簡易的な野戦病院の建材へと姿を変えた。
農地改革によって余力を持っていた食料備蓄が、こんな形で活かされるとは、計画を立てた当初は考えてもいなかった。
補給の手配を進める中、私はもう一つの決断を下した。
アルベルト様への書状を、自らの手でしたためたのだ。
事情を包み隠さず伝え、協力を仰ぐべきかどうか、正直なところ、筆を執る前には迷いもあった。
けれど、迷っている時間こそが、最も惜しいものだった。
数日後、返信とともに届いたのは、思いがけないほど早い反応だった。
書状にはこう記されていた。
「君が望むなら、私はどこまでも協力する」
「隣国軍の一部を、貴領の補給路確保のために派遣しよう」
その一文を読んだとき、私は思わず息を止めた。
単なる商談相手としての協力ではない。
そこには、こちらの事情を丸ごと受け止めようとする、確かな意志があった。
数日のうちに、ヴァレンティア帝国から派遣された部隊が、公爵領の国境付近に展開を始めた。
彼らの役目は、あくまで補給路の護衛であり、直接の戦闘には加わらない。
それでも、その存在があるだけで、輸送に関わる者たちの緊張は、大きく和らいだ。
その報せを聞いた父は、しばらく複雑な表情を浮かべていた。
「隣国の軍を国内に招き入れることに、不安がないと言えば嘘になる」
父の懸念はもっともだった。
「承知しています」
「ですから、護衛の範囲と期間については、書状で厳密に取り決めました」
私がそう答えると、父はようやく安堵したように、肩の力を抜いた。
「……お前がそこまで抜かりなくやっているなら、何も言うまい」
リリア嬢も、荷馬車の準備に自ら加わってくれていた。
以前の彼女からは想像もつかない、てきぱきとした働きぶりだった。
「少しでも、お役に立ちたいのです」
そう言って微笑む横顔には、以前のような怯えは、もう見当たらなかった。
アルベルト様自身も、視察という名目で、再び公爵領を訪れた。
忙しい合間を縫っての訪問だったのだろう、その表情には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。
執務室で書類に目を通す私の元へ、彼は静かに歩み寄ってきた。
「無理はしていないか」
思いがけない問いかけに、私は一瞬手を止めた。
「ご心配なく」
「これくらいの忙しさには、慣れています」
そう答えると、アルベルト様は小さく笑った。
「君らしい返事だ」
その笑みを見た瞬間、これまで張り詰めていた緊張が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
誰かに気遣われるという感覚を、私はいつの間にか忘れていたのかもしれない。
しばらくの沈黙の後、アルベルト様がぽつりと呟いた。
「君は、王家を憎んでいないのか」
その問いに、私は少し考えてから答えた。
「憎んでいない、と言えば嘘になります」
「ですが、憎しみのために動くのは、性に合わないのです」
アルベルト様は、しばらく私の顔を見つめていた。
その眼差しには、これまでにない、穏やかな色が浮かんでいるように見えた。
「……そういうところが、君らしいのだろうな」
その一言に、私は自分でも驚くほど、素直に心が温かくなるのを感じた。
政治的な評価でも、実務上の信頼でもない、もっと個人的な部分を、この人は見てくれている。
そう感じたのは、これが初めてだったかもしれない。
窓の外では、補給物資を積んだ荷馬車の列が、静かに国境へと向かっていた。
その光景を並んで見つめながら、私は自分の中に芽生えつつある感情の名前を、少しずつ、確かめ始めていた。
この先、王国がどうなっていくのか、まだ誰にも分からない。
けれど、少なくとも今この瞬間は、守るべきものの輪郭が、はっきりと見えていた。




