第十三章 王太子の敗北
補給路が確保されてから、数日が過ぎた頃だった。
前線からの報告に、これまでとは違う緊迫した空気が滲むようになっていた。
敵軍の攻勢が、想像以上に激しさを増しているという。
敵軍は、これまでにない規模の兵力を投入してきているということだ。
霧に紛れて接近した敵の奇襲部隊が、王軍の側面を突き、瞬く間に陣形を崩したと、報告書には記されていた。
混乱の中、指揮系統も一時的に機能を失いかけていたらしい。
この報せは、公爵領内にも、すぐに広まった。
リリア嬢は、報告書を読む私の傍らで、青ざめた顔をしていた。
「殿下は……ご無事なのでしょうか」
その声には、かつての婚約者を案じる、偽りのない響きがあった。
「今のところは」
「危機は脱したと、報告には記されています」
私がそう伝えると、リリア嬢は胸を撫で下ろすように、深く息を吐いた。
複雑な過去を持つ二人ではあるけれど、彼女の中にはまだ、エドワード様を案じる気持ちが残っているのだろう。
そんなある日、情報網から届いた一報に、私は思わず息を呑んだ。
エドワード様率いる部隊が、敵軍の奇襲を受け、包囲されかけているという内容だった。
報告書には、その時の様子が、簡潔に、けれど生々しく記されていた。
数で劣る王軍は、じりじりと後退を余儀なくされていたという。
エドワード様自身も、最前線で剣を振るい続けていたが、多勢に無勢は、いかんともしがたい状況だった。
そして、捕虜になることすら覚悟したという、まさにその瞬間。
側面から現れた別動隊が、包囲網に穴を開けた。
それは、私が事前に整備しておいた補給路を利用して、密かに展開させていた後詰めの部隊だった。
前線の混乱に備え、私はあらかじめ、いくつかの予備部隊と輸送路を、複数用意していた。
最悪の事態を想定して動くことは、この三年で身についた、数少ない習慣の一つだ。
その備えが、まさかこのような形で、王太子その人の命を救うことになるとは、私自身、思ってもみなかった。
辛くも包囲を脱したエドワード様は、後方の陣地に運ばれた後、しばらく口を開かなかったという。
側近の一人が、救出の経緯を説明したときの様子が、報告書には記されていた。
「殿下を救ったのは、アーデルハイト公爵領が用意していた予備の部隊です」
「エレオノーラ様が、あらかじめ手を打っておられたと聞いております」
その言葉を聞いたエドワード様は、しばらく呆然と立ち尽くしていたという。
自分を切り捨てた王家に、それでも力を貸してくれた女性。
自分が退けた警告を、誰よりも正しく理解し、備えていた女性。
その存在の大きさを、彼はようやく、身をもって思い知らされたのだろう。
報告書には、エドワード様がその夜、陣幕の中で一人、こう呟いていたとも記されていた。
「私は……何をしていたんだ」
その一言を読んだとき、私は複雑な感情に包まれた。
三年前、あれほど繰り返し伝えたはずの警告。
あの時、彼が少しでも耳を傾けてくれていたら、今のこの状況は、避けられたのかもしれない。
そう思うと、今更の後悔に、素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。
けれど同時に、これは一つの転機なのだとも感じていた。
剣の腕にしか自信を持てなかった人が、初めて、自分自身の判断そのものを疑い始めている。
それは、決して簡単なことではない。
人は、失って初めて、その重さに気づくものなのかもしれない。
報告書を閉じ、私は窓の外に目をやった。
遠く国境の空には、まだ煙が薄く立ち上っているのが見えるようだった。
戦況は、これでようやく持ち直しの兆しを見せ始めている。
けれど、本当の意味での決着には、まだ多くの道のりが残されていた。
アルベルト様からも、短い書状が届いていた。
「王太子の窮地を救ったのは、君の備えだそうだな」
「見事だ、と言うべきなのだろうが、少し複雑な気分でもある」
その内容に、私は思わず小さく笑ってしまった。
どうやら彼にも、素直に割り切れない感情があるらしい。
その人間らしさが、なぜか少し、嬉しく感じられた。
執務室の扉が静かに開き、父が姿を見せた。
「聞いたぞ。お前の備えが、王太子の命を救ったそうだな」
私は小さく頷いた。
「結果的に、そうなっただけです」
「誰かを救うために動いたわけではありません、ただ、備えていただけのことです」
父はしばらく私を見つめた後、静かに笑った。
「その備えこそが、お前の強さなのだろうな」
その言葉に、私は少しだけ、面映ゆい気持ちになった。
誰かに褒められることに、まだ慣れていない自分がいる。
それでも、悪い気はしなかった。
夜、一人になった執務室で、私はもう一度、届いた報告書を読み返した。
エドワード様の後悔の言葉が、何度読んでも、胸の奥に小さな棘のように残る。
三年前のあの日、私たちが違う選択をしていたら。
そんな詮無い問いが、ふと頭をよぎった。
けれど、過去を悔やんでも、何も変わらない。
今できることを、ただ積み重ねていくしかない。
私はそう自分に言い聞かせながら、静かに蝋燭の火を消した。




