第八章 アルベルトの提案
王国内の混乱が広がるにつれて、公爵領にもその余波が及び始めていた。
流入する人々の数は日に日に増え、治安の維持や住居の確保など、対応すべき課題は尽きなかった。
そんな慌ただしい日々の中、隣国ヴァレンティア帝国から、再び訪問の知らせが届いた。
今回訪れるのは、前回同様、王太子アルベルト様自身だという。
しかも今回は、通商だけでなく、軍事に関する話し合いも予定されているとのことだった。
その一文を読んだとき、私は少なからず緊張を覚えた。
軍事という言葉には、通商協定とはまた違う重みがある。
父にこの提案を伝えると、しばらく黙り込んだ後、慎重な表情で口を開いた。
「軍事同盟か……悪い話ではないが、王国を刺激することにもなりかねん」
その懸念は、私も十分に理解していた。
「承知しています」
「ですから、あくまで防衛のための協定として、条文を整えるつもりです」
私はそう答えながら、これまで積み上げてきた法知識を総動員する必要を感じていた。
どのような形であれ、王国を刺激しすぎない、けれど公爵領の安全は確実に守られる。
その均衡点を見極めることこそが、この交渉の核心だった。
到着したアルベルト様は、以前と変わらぬ鋭い眼差しを湛えていた。
けれどその表情には、単なる商談相手を見る目とは違う、どこか興味深げな色が浮かんでいるように見えた。
応接室に通されるなり、彼は前置きもなく本題を切り出した。
「単刀直入に言おう」
「私は、通商協定だけでなく、軍事同盟の締結を提案しに来た」
予想していなかった申し出に、私は思わず姿勢を正した。
「軍事同盟、ですか」
私の問いに、アルベルト様は静かに頷いた。
「王国の混乱は、いずれこの地域全体の不安定要素になりかねない」
「そうなる前に、信頼できる相手と手を結んでおきたい」
彼の言葉には、単なる打算だけではない、確かな戦略眼が感じられた。
私はしばし考えを巡らせた後、率直に問い返した。
「信頼できる相手というのは、私のことでしょうか」
その問いに、アルベルト様はわずかに口角を上げた。
「ああ」
「この一年足らずで、これだけの実績を積み上げた人物を、私は他に知らない」
率直な評価の言葉に、私は少し面食らいながらも、冷静さを保とうと努めた。
話はそこから、通商協定の拡張と、有事の際の相互援助の枠組みへと発展していった。
港湾使用の優遇、技術交流、そして万一の際の軍事的な後ろ盾。
それは、一介の公爵領に対する提案としては、破格と言っていいものだった。
アルベルト様は、境界防衛のための共同哨戒や、有事の際の兵站協力についても、具体的な数字を交えながら説明を続けた。
その説明は、単なる理想論ではなく、実務に裏打ちされた現実的なものだった。
私は一つ一つの条件を吟味しながら、こちらの譲れる点と譲れない点を、頭の中で整理していった。
側近たちも、その条件の良さに驚きを隠せない様子だった。
交渉の合間、アルベルト様がふと窓の外に目をやりながら、独り言のように呟いた。
「君の領地は、もう一つの小さな国になりつつあるな」
その言葉に、私は少し考えてから答えた。
「そう見えるかもしれません」
「ですが、私が欲しいのは独立ではありません」
アルベルト様が、興味深そうに視線をこちらへ戻す。
「では、何が欲しい」
私はしばし言葉を選びながら、けれど迷わず答えた。
「領民が、安心して暮らせる場所です」
「王家に頼らずとも、自分たちの力で生きていける、そういう場所を、ただ守りたいだけなのです」
その言葉を聞いたアルベルト様は、しばらく無言だった。
やがて、これまでとは少し違う、柔らかな声で口を開いた。
「なるほど。……それは、私が思っていたより、ずっと誠実な答えだ」
その一言に、なぜか胸の奥が小さく波打つのを感じた。
これまで彼から向けられてきたのは、政治家としての、あるいは経営者としての評価だった。
けれど今の言葉には、そのどちらとも違う、もう少し個人的な響きがあったように思う。
あの人が私を評価してくれるのは、あくまで政治的な成果あってのことだ。
そう自分に言い聞かせながらも、先ほどの言葉の余韻は、なかなか胸から消えてくれなかった。
誰かに、これほどまっすぐな評価をされたのは、いつ以来だろうか。
記憶を辿ってみても、思い当たる相手はいなかった。
その後の交渉は、驚くほど円滑に進んだ。
互いの主張がぶつかることはあっても、根底にある目的が一致しているからか、話し合いはむしろ心地よい緊張感を伴っていた。
日が傾き始めた頃、ようやく協定の骨子がまとまった。
交渉が一段落し、アルベルト様が帰り支度を始めた頃、彼は不意に振り返って言った。
「次に来るときは、商談以外の話もしたいものだな」
その言葉の意味を、私はすぐには掴みかねた。
けれど、彼の口元に浮かんだ微かな笑みを見て、単なる社交辞令ではないのだと、なんとなく感じ取った。
馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、私は自分の頬が、いつになく熱を持っていることに気づいた。
これまで積み上げてきた実績を、正しく評価してくれる相手。
それだけだと思っていたはずなのに、今の私の中には、もう少し違う感情が芽生え始めているのかもしれない。
夕暮れの空を見上げながら、私はしばらくの間、その正体を確かめることができずにいた。




