第七章 最初の崩壊
王国からの使者が訪れてから、ひと月ほどが過ぎていた。
季節は少しずつ移ろい、公爵領の畑では、改革の成果である新しい作物が着実に育ち始めていた。
そんなある日、王都から届いた行商人の報告書に、私は思わず目を止めた。
そこに記されていたのは、王都をはじめとする王国各地で、食料品の価格が急激に上昇しているという知らせだった。
パンの値段が、この一月でおよそ二割も跳ね上がっているという。
庶民の暮らしを直撃するその変化に、私はすぐに原因を探る調査を命じた。
数日後、集まった情報を突き合わせると、一つの答えが浮かび上がってきた。
王家が財政難を補うため、農民に対する課税を大幅に引き上げていたのだ。
収穫のほとんどを税として納めさせられた農民たちは、生活のために手元に残るわずかな作物を、高値で売らざるを得なくなっていた。
それが巡り巡って、市場全体の価格を押し上げていたのだ。
皮肉なことに、この政策を主導したのは、かつて私が「税制を見直すべきです」と繰り返し訴えていた、あの宰相派の貴族たちだった。
私の忠告を退けた者たちが、今になって、私が最も恐れていた事態を、自らの手で引き起こしている。
一方、私の公爵領では、まったく逆の現象が起きていた。
農地改革によって収量が安定し、複数の作物を組み合わせる輪作の導入で、不作のリスクも分散されている。
加えて、商人への低利融資のおかげで、流通の目詰まりも解消されていた。
その結果、公爵領内の食料価格は、この半年ほとんど変動していない。
それどころか、一部の品目では、以前よりも安定して手に入るようになっていた。
この落差は、すぐに人々の口の端に上るようになった。
王国各地から、公爵領へ移り住もうとする者たちが、少しずつ現れ始めたのだ。
特に、国境に近い村々では、その動きが顕著だった。
家財道具を荷車に積み、家族を連れて公爵領を目指す。
そんな光景が、街道のあちこちで見られるようになったと、報告には記されていた。
報告書を読み終えた私は、すぐに執務室の奥にある地図を広げた。
王国と公爵領の境に沿って、いくつもの小さな印がつけられている。
これまで密かに整備してきた、避難民のための中継地点の目印だった。
いつかこうした事態が起こることを、私はどこかで予感していたのかもしれない。
領境の関所を預かる者からは、受け入れの是非を問う早馬まで届いていた。
私は父と相談の上、身元の確かな者から順に、段階的に受け入れる方針を決めた。
無秩序な流入は、かえって領内の混乱を招きかねないと判断したからだ。
父はその夜、久しぶりに執務室を訪れ、私の隣で地図を覗き込んだ。
「まさか、ここまで早く動くことになるとはな」
父の声には、驚きと同時に、どこか感慨深いものが滲んでいた。
「ですが、備えのない混乱よりは、よほどましです」
私はそう答えながら、地図の上に新しい印を書き加えた。
「受け入れた者たちには、まず仕事を与えよう」
「港でも、畑でも、人手はいくらあっても足りない」
父の提案に、私は迷わず頷いた。
「同感です」
「ただの施しではなく、彼ら自身の力で立てる場所を用意したいと思います」
老執事もまた、この動きを静かに見守っていた一人だった。
彼は長年、公爵家に仕えてきた経験から、こうした急激な変化がもたらす危うさをよく理解している。
「人が集まるところには、良い話も悪い話も、等しく流れ込んでまいります」
「浮かれることなく、足元を固めていきましょう」
その助言に、私は素直に頷いた。
「肝に銘じておきます」
浮ついた高揚感に流されないこと。
それもまた、この三年で身につけた、数少ない教訓の一つだった。
王都の情報網からは、さらに詳しい話も届いていた。
王宮内では、この異常事態について、連日のように議論が交わされているという。
そんな中、エドワード様が執務室で発したという一言が、報告書の中に記されていた。
「なぜ、アーデルハイト領だけが、これほど落ち着いているのだ」
その問いに、同席していた側近の一人が、ためらいがちに答えたのだという。
「エレオノーラ嬢がいなくなれば、王国の財政はむしろ正常に戻る、と私どもは考えておりました」
「ですが、現実は……どうやら、逆だったようです」
報告書のその一文を読んだとき、私はしばらく手を止めていた。
悲しみでも、優越感でもない。
ただ、静かな確信だけがそこにあった。
私がいなくなったことで問題が起きているのではない。
私が指摘し続けてきた問題を、誰も正しく引き継がなかった、それだけのことだ。
側近の言葉を聞いたエドワード様が、その場でどのような表情をしていたのか、報告書には記されていなかった。
けれど、想像することはできる。
剣を振るうことにかけては誰よりも優れた人だが、政治の機微には、驚くほど疎い。
そんな彼が、これまで軽んじてきた現実と、初めて正面から向き合わされている。
その光景を思い描くと、複雑な感情が胸の奥をよぎった。
私は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
眼下に広がる公爵領の畑は、夕日を受けて穏やかな金色に染まっている。
この景色を守るために、私はこの三年、そしてこの数ヶ月を費やしてきた。
王国がどうなろうと知らない、と切り捨てることは簡単だ。
けれど、そこに暮らす人々の顔を思うと、単純にそう割り切ることもできずにいた。
農民も、商人も、かつて王都で見かけた名も知らぬ人々も、王家の失策の代償を、今まさに払わされている。
その事実だけは、感情を排してもなお、重く胸にのしかかった。
報告書の最後には、これまでにない一文が添えられていた。
「殿下は近頃、御自身の判断について、深く思い悩んでおられるご様子です」
エドワード様が、もしかしたら自分はとんでもない間違いを犯したのではないかと、初めて疑い始めている。
そう思わせるには、十分すぎる報告だった。
三年間、どれだけ言葉を尽くしても届かなかった疑念が、皮肉にも、私がいなくなった今になって、彼自身の中に芽生え始めている。
窓の外はすでに、藍色の夜へと移り変わろうとしていた。
私はその空を見上げながら、静かに息を吐いた。
夜が更けても、私はしばらく地図の前を離れられずにいた。
押し寄せる人々を、単なる数字として扱うことだけはしたくない。
一人一人に、それぞれの暮らしと、それぞれの事情がある。
その重みを忘れずにいることこそが、領主としての最低限の誠実さだと、私は思っていた。
気づくのが遅すぎたとは言わない。
けれど、気づいた今、彼がどう動くのか。
それを見届ける権利くらいは、まだ私にも残されている気がした。




