第六章 王国からの使者
アルベルト様が公爵領を去ってから、半月ほどが経った頃のことだった。
その日は朝から冷たい雨が降っていて、庭木の緑が一段と濃く見える、静かな一日になるはずだった。
屋敷の中では暖炉に火が入れられ、使用人たちはいつも通りの落ち着いた足取りで、朝の仕事をこなしていた。
私は執務室で、港の拡張工事に関する見積もりを確認していた。
数字を追う作業は、婚約破棄からこの数ヶ月ですっかり日課になっている。
けれど昼を過ぎた頃、遠くから馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
窓の外を見ると、王家の紋章を掲げた馬車が、雨に濡れた並木道をこちらへ向かって進んでくる。
その紋章を目にした瞬間、屋敷の空気がわずかに張り詰めるのを感じた。
使用人たちも、突然の訪問に戸惑いを隠せない様子だった。
無理もない。
私が王家に見切りをつけてからというもの、王宮からの正式な使者が訪れるのは、これが初めてのことだったからだ。
私は書類を片付ける手を止め、身なりを整えるよう侍女に指示を出した。
相手がどのような用件で来たにせよ、動揺した姿を見せるつもりはない。
鏡に映る自分の表情を確かめ、いつも通りの落ち着きを装う。
これも、王太子妃教育で叩き込まれた技術の一つだった。
応接室に通されたのは、王宮の文官らしい壮年の男だった。
仕立ての良い上着を纏い、いかにも王家の威光を背負っているといった態度で、椅子に腰を下ろす前から尊大な空気を漂わせている。
私は努めて表情を変えず、丁寧に迎えの言葉を述べた。
父も同席し、静かに男の様子をうかがっていた。
父の隣に控える老執事も、油断のない目つきで来客を観察している。
男は前置きの挨拶もそこそこに、懐から一通の書状を取り出した。
その所作には、この程度の用件で済むはずだという、隠しきれない慢心が見え隠れしていた。
書状に記されていたのは、想像していた通り、いや、想像以上に一方的な内容だった。
「アーデルハイト公爵家におかれては、王国の秩序に従い、これまで通りの忠誠と協力を尽くされるべきかと存じます」
丁寧な言葉遣いの裏に、隠しきれない威圧の色が滲んでいた。
要するに、婚約は破棄されたとしても、公爵家という存在そのものは依然として王国の従属下にあり、独断で隣国と貿易協定を結ぶような真似は許されない、というのが男の主張だった。
港の拡張も、鉱山の開発も、そしてヴァレンティア帝国との通商交渉も、すべて王家の承認を経て行うべきだと、彼はそう告げた。
その口ぶりからは、公爵領の成功そのものを苦々しく思っている本音が透けて見えるようだった。
私は、その主張を静かに最後まで聞いた。
途中で口を挟むことはしない。
相手の言い分を最後まで理解した上で、一つずつ丁寧に反論する方が、後々の混乱を招かないと知っているからだ。
男が話し終えたのを確認してから、私はゆっくりと口を開いた。
「婚約は、破棄されました」
その一言で、男の表情がわずかに硬くなる。
私は構わず、言葉を続けた。
「そしてアーデルハイト公爵家は、王家の所有物になるという契約を、これまで一度も結んでおりません」
「代々の当主が守ってきたのは、建国の折に交わされた自治特権の勅許状であり、王太子妃の座とは、本来何の関係もないはずです」
男の眉が、わずかに動いた。
予想外の反論だったのだろう。
私はさらに続ける。
「税と兵役の義務については、これまでと変わらず果たしております」
「ですが、それ以上の従属を求める根拠は、どの法にも見当たりません」
「もし異なる見解をお持ちでしたら、根拠となる条文をお示しいただけますでしょうか」
その問いに、男は明確な答えを返せなかった。
当然だろう。
彼が携えてきたのは、法的な根拠ではなく、これまでの慣習と、王家の威光への漠然とした期待に過ぎなかったのだから。
それでも男は、なんとか体裁を保とうと、別の角度から言葉を重ねてきた。
「しかし、公爵家が独自に隣国と通じることは、国家の安全保障に関わる重大事です」
「王家の目の届かぬところで事が進むのは、看過できません」
私は静かに頷き、けれど態度は崩さなかった。
「ご懸念はもっともです」
「ですから、通商協定の写しはすべて、逐一王家にも提出しております」
「隠す意図など、最初からございません」
「ただ、承認を求める義務までは、契約上どこにもないというだけのことです」
理路整然とした返答に、男はついに黙り込んでしまった。
沈黙する男に代わって、それまで黙っていた父が静かに口を開いた。
「娘の申す通りだ」
「王国が公爵領に求められるのは、あくまで法と契約の範囲内のことだけだ」
父の声には、私が知る限り最も揺るぎない響きがあった。
娘の判断を、疑いなく支持するという意思がそこにあった。
その姿を横目に、私は改めて、自分がどれほど恵まれた立場にいるかを実感した。
男はしばらく食い下がろうとしたが、結局これといった反論を用意できないまま、その日は退散していった。
馬車が門を出ていくのを見届けながら、私は小さく息を吐いた。
けれど、これで終わりではないと分かっていた。
王家が本気で公爵領を屈服させたいのであれば、次はもっと巧妙な手を打ってくるはずだ。
老執事が静かに私の隣に立ち、ぽつりと呟いた。
「見事な受け答えでございました」
「ですが、王家というのは、一度の失敗ですぐに諦めるような相手ではございません」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「分かっています」
「けれど、こちらが法と実績を積み重ねている限り、向こうも簡単には手を出せません」
数日後、王都に残していた情報網から、一通の報告が届いた。
差出人は、私が長年信頼を寄せている、王宮に伝手を持つ商人だった。
その文面には、あの使者が王宮に戻った後の様子が、簡潔に記されていた。
「アーデルハイト嬢は、ただ強がっているだけだと思われます」
「いずれ資金が尽きれば、王家に頭を下げてくるだろうと、宮廷では専らの噂です」
その一文を読んだとき、私は思わず苦笑してしまった。
私の三年間の準備を、彼らはまだ理解していない。
数字も、実績も、目の前に示したはずなのに、それでもなお、彼らは自分たちの世界の外側にある現実を、正しく認めようとはしなかった。
ある意味では、それは好都合でもある。
油断している相手ほど、対応が遅れるものだからだ。
報告書には、もう一つ、見過ごせない一文が添えられていた。
「今期の王国税収は、前年に比べ、大幅な落ち込みを見せているとのことです」
その一行を、私は何度も読み返した。
港の交易が公爵領へと流れ始めたことの影響は、想像していたよりも早く、王国の財政を蝕み始めているのかもしれない。
三年前に見た、あの不吉な数字の流れが、再び頭の中で像を結んでいく。
あの時とは違い、今の私には、これに対して声を上げる義務はない。
けれど、この先起こるであろうことを思うと、胸の奥にわずかな重さを覚えずにはいられなかった。
王国という船が、少しずつ傾き始めている。
その船に、かつて私も乗っていたのだという事実が、時折、奇妙な感慨として胸をよぎる。
夜になり、父と二人で軽い夕食を取りながら、私は今日の出来事を振り返っていた。
父は静かにグラスを傾けながら、ふと思い出したように口を開いた。
「アルベルト殿にも、この一件は伝わるだろうな」
その一言に、私は少しだけ手を止めた。
確かに、ヴァレンティア帝国との交渉が絡む以上、この件が隣国の耳に入るのは時間の問題だろう。
王国が公爵領に圧力をかけようとしたと知れば、アルベルト様はどう感じるだろうか。
そこまで考えて、私は小さく首を振った。
今はまだ、そこまで気を回す必要はない。
目の前の課題を一つずつ片付けていくことこそが、今の私にできる最善のはずだ。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。
私はその雨音を聞きながら、報告書をゆっくりと机の引き出しにしまい込んだ。
王国がこの先、どのような道を辿るのか、それは私の知るところではない。
ただ一つ確かなのは、私が選んだ道が、間違っていなかったということだった。
蝋燭の灯りを見つめながら、私はもう一度、これから積み上げていくべきもののことを考え始めていた。




