第五章 隣国の王太子
隣国からの使者を迎える朝、公爵邸には朝から慌ただしい空気が漂っていた。
大規模な通商協定の交渉のため、隣国ヴァレンティア帝国の王太子アルベルト様が、直々に領地を訪れることになっている。
使用人たちは朝から邸内を磨き上げ、応接の間には最上級の茶器が並べられた。
私自身は、それほど気負ってはいなかった。
これまで様々な商談をこなしてきた自負がある。
相手が一国の王太子であっても、やるべきことは変わらない。
正午を少し過ぎた頃、馬車の列が公爵領の門をくぐった。
案内された応接室に姿を現したのは、思っていたよりもずっと若く、そして鋭い眼差しを持つ青年だった。
深い青の瞳が、部屋の中を一瞥しただけで、何かを見定めるように動く。
挨拶を交わす間も、その視線は油断なく私を捉えていた。
婚約破棄された哀れな令嬢として、同情まじりに扱われる。
正直、そんな空気を覚悟していた。
けれど、アルベルト様の態度は、私の想像とはまるで違っていた。
席に着くなり、彼は前置きもなく机の上に一枚の書類を広げた。
それは、この一年の公爵領の財務資料の写しだった。
どこで手に入れたのか、詳細な数字までもが記されている。
「この数字を、一年でここまで改善したのは誰だ?」
唐突な問いに、私は一瞬言葉を止めた。
同情でも、哀れみでもない。
そこにあったのは、純粋な興味の色だけだった。
「私です」
短く答えると、アルベルト様の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「なるほど」
「王国は、惜しい人材を捨てたな」
その一言に、周囲に控えていた側近たちが小さくどよめいた。
けれど私は、卑屈にもならず、驕ることもなく、ただ静かに頷いた。
「評価は、光栄です」
「ですが、今の私に必要なのは、過去への同情ではなく、未来への投資です」
私の言葉に、アルベルト様は興味深そうに片眉を上げた。
「威勢がいいな」
「では、その投資とやらの中身を、聞かせてもらおうか」
そこから始まった議論は、想像していた形式的な商談とはまるで違った。
港の拡張計画、鉱山の採算性、農地改革がもたらす中長期的な影響。
私が示す数字の一つ一つに、アルベルト様は鋭い質問を投げかけてくる。
甘い見通しは一切許されない、そんな緊張感があった。
けれど、それが不思議と心地よかった。
王宮にいた頃、私がどれほど正確な数字を示しても、そこに真剣に向き合ってくれる人はいなかった。
エドワード様は、いつも私の言葉より、耳当たりの良い言葉を選んでいた。
けれど目の前のこの人は違う。
私の主張の穴を的確に突き、同時に、優れた部分は素直に認める。
対等な相手として扱われる、その感覚を、私はどれほど久しく忘れていただろうか。
議論は夕刻近くまで続いた。
最終的に、通商協定の大枠については前向きな合意に至った。
細部の詰めはこれからだが、双方にとって悪くない滑り出しだったと思う。
帰り支度を終えたアルベルト様が、玄関先で不意に足を止めた。
「エレオノーラ嬢」
名を呼ばれ、私は静かに顔を上げた。
「今日の話、想像していたよりずっと有意義だった」
「次の商談も、君と話したい」
その言葉には、社交辞令とは思えない、確かな響きがあった。
私は小さく礼をして答えた。
「こちらこそ、光栄です」
馬車が走り去るのを見送りながら、私は不思議な感覚に包まれていた。
これまで多くの人に評価されてきたつもりだった。
けれどそれは大抵、婚約者として、あるいは公爵令嬢としての私への評価だった。
今日初めて、一人の人間として、その能力だけを見て評価された気がする。
夕暮れの空を見上げながら、私は静かに、けれど確かに、胸の奥が熱くなるのを感じていた。




