第四章 私を捨てた王国
王都を発つ日、空は雲一つない快晴だった。
馬車の窓から見える王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
けれど私の胸に、名残惜しさはほとんどなかった。
これから向かう先にこそ、私の本当の居場所があると分かっていたからだ。
数日かけて辿り着いたアーデルハイト公爵領は、記憶の中よりもずっと穏やかに私を迎えてくれた。
潮の匂いを含んだ風、遠くに広がる緑豊かな丘陵、行き交う領民たちの活気ある声。
この土地こそが、これから私が全力を注ぐべき場所だった。
屋敷に着いてすぐ、私は自室にこもることをやめた。
三年間、机上で練り上げてきた計画を、いよいよ現実のものにする時が来たのだ。
まず取り掛かったのは、港の改修だった。
老朽化した桟橋を取り壊し、大型船が停泊できるよう水深を確保する。
倉庫を新設し、荷の積み下ろしを効率化する。
これまで隣国との貿易は、限られた商人だけが細々と行うものだった。
けれど整備された港があれば、話は変わってくる。
次に着手したのは、鉱山の再開発だった。
領地の北に眠る鉱脈は、かつて採算が合わないという理由で放置されていた。
しかし私が独自に集めた地質資料によれば、より深部には、まだ手つかずの鉱脈が広がっている可能性が高かった。
専門の技師を招き、試掘を進めさせる。
同時に、農地の改革にも手をつけた。
これまでの画一的な栽培方法を見直し、土地に適した作物へと切り替えていく。 商人たちには、低利での融資制度を新たに設けた。
資金の乏しい若い商人ほど、思い切った挑戦をためらう。
その背中を押すのも、領主である私の役目だった。
改革は、決して一朝一夕には進まない。
反発する声もあれば、失敗もあった。
それでも一つ一つ、着実に前へ進んでいく手応えを、私は日々感じていた。
王宮での日々では味わえなかった感覚だった。
あそこでは、私がどれほど正しい提言をしても、最終的に判断を下すのはエドワード様だった。
けれどここでは違う。
私が決め、私が動かし、その結果を私自身が引き受ける。
その重みこそが、私には心地よかった。
ある日の夕刻、執務室で帳簿を整理していると、父が顔を覗かせた。
机の上に広がる資料の山を見て、父は小さく笑った。
「王妃教育より、こちらの方が楽しそうだな」
冗談交じりのその言葉に、私も思わず頬を緩めた。
「ええ」
「ずっとこちらの方が好きでした」
本音だった。
誰かに評価されるための礼儀作法よりも、目の前の数字と向き合い、結果を出すことの方が、私の性に合っている。
父はそんな私を、複雑そうな、けれどどこか誇らしげな目で見つめていた。
「お前がそう言うなら、王家も惜しいことをしたものだ」
私は静かに首を横に振った。
「惜しんでいるのは、私自身でなく能力だけでしょう」
父が声を立てて笑う。
その笑い声を聞きながら、私は改めて実感していた。
婚約破棄は、私から何かを奪ったのではない。
むしろ、本来の私を取り戻すきっかけになったのだ。
港の改修が一段落した頃、その成果は思いがけない形で表れ始めた。
隣国ヴァレンティア帝国の商人たちが、アーデルハイト領の港に関心を示すようになったのだ。
取引条件を確認する使者が、次々と領地を訪れるようになった。
中には、これまで王国とはほとんど交易のなかった商会の名前もある。
領地の経済は、目に見える速さで動き始めていた。
そんなある朝、一通の書状が公爵邸に届いた。
差出人は、隣国ヴァレンティア帝国の宮廷だった。
開封してすぐ、私はその内容に目を見張った。
港の拡張と鉱山開発を踏まえた、大規模な通商協定の申し入れ。
しかもその交渉役として、帝国側から派遣されるのは、王太子その人だという。
アルベルト・フォン・ヴァレンティア。
隣国で、他人の能力を見抜くことに長けていると噂される人物だった。
書状を手にしたまま、私はしばらく窓の外を見つめていた。
王国を追われた令嬢に、まさか隣国の王太子自らが会いに来るとは、誰が想像しただろうか。
けれど不思議と、恐れはなかった。
むしろ、これまで積み上げてきたものが、正しく評価される機会が訪れたのだと感じていた。
父にその報せを伝えると、しばらく絶句した後、深く頷いた。
「相手にとって不足はないな」
短いその一言に、父の期待が滲んでいる。
私は書状を胸に抱き、静かに息を吸い込んだ。
婚約破棄されたあの夜から、まだそれほど時は経っていない。
それなのに、私の周りの景色は、少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。
この出会いが、これからの私にとって何を意味するのか、この時の私はまだ知らない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
私は、もう誰かに与えられる人生を待つだけの女ではないということだ。




