第十八章 私が選ぶ未来
あの日から、数日が過ぎた。
迷いは、完全に消えたわけではなかった。
けれど、心の奥底では、少しずつ、一つの方向が形になりつつあった。
ある夜、私は改めて、父の書斎を訪れた。
三年前、婚約破棄を告げたあの夜と、同じ場所だった。
あの時と今とでは、私を取り巻く状況も、私自身の心境も、まるで違っている。
あの日、彼が浮かべた笑みの意味を、私は何度も、思い返していた。
政治的な打算でも、社交辞令でもない、あの飾らない表情。
その記憶が、迷いの中にいる私を、静かに支えてくれていた。
父は、書類から顔を上げ、静かに私を迎えた。
「今夜は、また何か、大事な話のようだな」
その言葉に、私は小さく苦笑した。
「お見通しですね」
私は、率直に、今の胸の内を語った。
アルベルト様からの求婚と、それに対する迷い。
誰かの妻になることが、また誰かに決められた人生を歩むことに繋がるのではないかという、拭いきれない不安。
黙って聞いていた父は、私が話し終えると、しばらく目を閉じていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前は一度、誰かに決められた人生を歩いた」
その一言に、私は思わず父を見つめた。
「王太子妃教育も、婚約も、お前が望んで選んだものではなかった」
「それでもお前は、その中で、自分にできる最善を尽くしてきた」
父の言葉には、これまでの私の歩みへの、深い理解があった。
父はしばらく、遠くを見るような目をしていた。
「お前の母も、そうだった」
思いがけない言葉に、私は静かに耳を傾けた。
「自分の意志を、最後まで曲げない人だった」
「私はただ、その隣にいられることを、誇りに思っていたよ」
父がそんな話をするのは、珍しいことだった。
その一言に、私はなぜか、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「だが、婚約破棄からこれまでは、違う」
「お前は、自分の頭で考え、自分の意志で、道を選んできた」
私は静かに頷いた。
「今度も、同じだ」
「誰に決められるでもなく、自分で決めればいい」
その言葉に、私は目頭が熱くなるのを感じた。
これまで、多くのことを一人で背負い、決めてきたつもりだった。
けれど、こうして背中を押してくれる存在がいることの心強さを、改めて実感した。
「ありがとうございます、お父様」
父は、優しく微笑んだ。
「礼を言うことはない」
「お前が幸せになる道を選ぶのを、見届けたいだけだ」
その夜、私は改めて、自分の心に問いかけた。
王太子妃という立場を失うことを、恐れているのか。
それとも、誰かの人生に寄り添うこと、そのものを、恐れているのか。
答えは、思っていたよりも、すぐに見つかった。
私が本当に望んでいるのは、立場でも、肩書でもない。
ただ、あの人と、対等な関係のまま、これからの人生を歩んでいくことだった。
リリア嬢にも、決意が固まったことを伝えた。
「良かった、ですね」
そう言って微笑む彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「エレオノーラ様には、幸せになっていただきたいと、心から思っています」
その言葉を、私は素直に、胸に受け止めた。
翌日、私はアルベルト様のもとを訪れた。
執務室で書類に目を通していた彼は、私の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
「答えが、出たのか」
私は、まっすぐに彼を見つめて答えた。
「私は、王太子妃になりたいわけではありません」
その言葉に、アルベルト様の表情が、わずかに曇りかけた。
けれど私は、構わず続けた。
「アルベルト様と、一緒に生きたいのです」
その一言に、彼の表情が、驚きから、次第に喜びへと変わっていくのが分かった。
「それなら、話は簡単だ」
そう言って、アルベルト様は、これまで見たことのないほど、屈託のない笑みを浮かべた。
「肩書も、立場も、後からいくらでも整えればいい」
「大切なのは、君が、隣にいると決めてくれたことだ」
私は、思わず頬を緩めた。
これまで積み重ねてきた迷いが、噓のように軽くなっていくのを感じた。
私たちはしばらく、言葉もなく、互いを見つめ合っていた。
これまで積み重ねてきた、数えきれないほどの交渉と議論。
その全ての先に、こんな穏やかな時間が待っているとは、出会った当初は想像もしていなかった。
窓の外には、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
誰かに決められた人生ではなく、自分で選び取った未来。
その一歩を、私は今、確かに踏み出していた。




