第5話 三年間、障壁は一枚のままだった
その日。
結局、俺は最後までサイのおっちゃんに叩きのめされた。
《障壁》で木剣を弾けたのも、最初のあの一回きり。
それでも。
あの一撃を境に、おっちゃんの俺を見る目が明らかに変わったのが分かった。
「……すまん。ちょっとやりすぎたな」
「きにふるな……」
「まともに喋れてねえじゃねえか」
口の中まで切ったらしく、舌がうまく回らない。
全身は青あざだらけだ。
だが、骨が一本も折れていないあたりに、元A級の恐ろしい技量が透けて見えた。あれだけ一方的に打ち据えておいて、すべて俺の身体が壊れるぎりぎりのところで止めていたのだ。
「ロイ」
「ん?」
「お前のその《障壁》だがな」
おっちゃんは沈みかけた夕日に目を細めた。
「使い方次第じゃ、いつか俺を超えるかもしれん」
「……マジで?」
思わず上体を起こしかける。
「いっ……!」
「動くな、馬鹿野郎」
一喝され、情けなく地面へ転がり直した。
「だがな」
おっちゃんの声が一段低くなる。
「その戦い方は、完全な諸刃の剣だ」
「諸刃……?」
「さっきお前は、木剣が命中する一点に《障壁》を合わせたな」
「ああ」
「発想は悪くない。だが、もしその位置がほんのわずか――一ミリでも狂ったらどうなる?」
想像する。
さっきの相手は木剣だった。
だが、もしあれが本物の刃なら。
「熟練の剣士相手なら、そのまま腕ごと斬り落とされるぞ」
「……」
「次の一振りで、首と胴体が泣き別れになってても不思議はねえ」
すっと背筋が凍った。
さっきまで「成功した」と浮かれていた自分が恥ずかしくなる。実戦なら、あの一回を除いて、俺はとっくに何十回も死んでいたのだ。
「要するにだ」
おっちゃんが鋭い視線を向けてくる。
「硬い盾を持ってるから安全なんじゃない」
「……」
「お前の場合、その小せえ盾の配置を一歩間違えた瞬間に即死するんだよ」
大盾なら、身を縮めるだけで攻撃から隠れられる。
だが、俺の《障壁》にそんな芸当はできない。
軌道を見極める。着弾点を予測する。寸分の狂いもなく展開する。
そのすべてが噛み合って、ようやく一撃を凌げるのだ。
「お前が足を踏み入れようとしてるのは、そういう修羅の道だぞ」
「…………」
「……なんでそこで目を輝かせてやがる」
心底呆れたような声が降ってきた。
「いや……だってさ」
危険だとも、死ぬかもしれないとも言われた。
けれど、サイのおっちゃんは決して「無理だ」とは言わなかった。
「明日の朝から、うちに来い」
「え?」
「稽古をつけてやる」
「マジで!?」
「ただし」
太い人差し指が、俺の鼻先へ突きつけられた。
「ギルドの雑用も手伝え。自分の飯代くらいは自分で稼げ」
「喜んで!」
「返事だけは昔から一人前だな」
「ありがとう、サイ」
久しぶりに「おっちゃん」を付けずに呼んだ。
サイは一瞬だけ目を細め、すぐに背を向けた。
「礼なら、生き残ってから言え」
こうして、俺の泥臭い三年間の修練が始まった。
◇
最初に課されたのは――ひたすら走ることだった。
「もう一周行け!」
「まだ走るのかよ!」
「冒険者になりてえんだろうが!」
「なりたいけど足がもげる!」
「もげてから喚け!」
夜明けとともに走り込み。
腕立て伏せ、腹筋、木登り、崖登り。
重石を背負わされて、さらに走る。
自分でも鍛えてきたつもりだったが、元A級冒険者が課す「基礎」は次元が違っていた。
一か月目は、夕飯を食べる前に泥のように眠った。
三か月目で、ようやく一日のメニューを最後までこなせるようになった。
そして半年が過ぎた頃。
「よし。次へ進むぞ」
「やっと《障壁》の訓練か?」
「違う」
おっちゃんは平然と木剣を構えた。
「まず、俺の攻撃を全部躱せ」
「……俺、障壁使いなんだけど?」
「一枚しか出せねえんだろ」
「はい」
「なら、避けられる攻撃にまで貴重な一枚を使うな」
ぐうの音も出ない正論だった。
相変わらず、こいつの正論は骨の髄まで痛い。
「行くぞ」
ブンッ!
「うわっ!?」
避けて、転がり、打たれ、また立つ。
それをひたすら繰り返した。
木剣の次は、投げられた小石の回避だ。
「待て待て! ちょっと待ってくれ!」
「なんだ」
「木剣より圧倒的に速いんだけど!?」
「飛んでくる矢や術式の攻撃が、お前の都合に合わせて減速してくれるとでも思ってんのか?」
「思ってないけど!」
ビュッ!
「痛ってぇ!」
「なら見切って躱せ!」
地獄だった。
◇
そんな生活を始めて、ちょうど半年。
王都から一通の手紙が届いた。
差出人の名を見ただけで、全身の疲れが少し軽くなった。
リンだった。
部屋へ戻るのももどかしく、その場で封を切った。
『ロイへ。
王都の訓練は思ってたよりずっと大変です。
《剣聖》なら何でも簡単にできると思ってたけど、全然そんなことありませんでした。
この前なんて、剣を振りすぎて両手に豆ができました。
先生には「剣聖が剣で手を痛めるな」って怒られました。
でも、私も頑張ります。
ロイに守ってもらうだけじゃ嫌だから。
次に会ったら、絶対にびっくりさせるからね。』
「……《剣聖》でも豆ができるんだな」
思わず口元が緩んだ。
あいつも頑張っている。
大変なのは俺だけじゃない。
手紙を丁寧に畳んで懐へしまう。
「よし」
その日は、予定より一周多く走った。
◇
訓練が終われば、今度はギルドの仕事が待っていた。
「ロイ! 西の森へ向かうパーティーの補給物資を運んでくれ!」
「了解、すぐやる!」
「ついでに赤牙狼の最近の動向、調べがついたか?」
「昨日まとめといたよ!」
「相変わらず手が早えな!」
荷物の運搬、薬草の選別、魔物の生態記録の読破、討伐から帰還した冒険者への聞き取り調査、危険区域の地図の更新。
時には荷物持ちとして、実際の依頼に同行することもあった。
「ようロイ。今日もサイさんにボコられたのか?」
先輩冒険者が俺の頬の青あざを見て笑う。
「今日はかすり傷だよ」
「そのツラでよく言うぜ」
「昨日よりはマシだって」
「今日の荷物持ち、本当に大丈夫かよ」
「もう、そのくらいじゃ置いていかれないよ」
「言うようになったじゃねえか」
「毎日のように走らされてみろよ」
「遠慮しとくわ」
そんな軽口を叩き合うのも、いつしか日常になっていた。
初めは単なる「サイのところの小僧」だったのが、半年、一年と経つうちに、少しずつ周囲の態度が変わっていった。
「ロイ、昨日教えてくれた迂回路のおかげで助かったぜ」
「赤牙狼は追い詰められると右へ逃げる癖があるからね。記録にも書いてあっただろ」
「あんな細かい資料まで読む奴、お前くらいだ」
「命がかかってるんだから読みなよ」
「へいへい。次も頼むぜ」
俺自身は、まだ冒険者ではない。
それでも、俺の知識や仕事を頼りにしてくれる冒険者が確実に増えていた。
それは悪い気分じゃなかった。
◇
リンからの手紙は、半年に一度のペースで届いた。
一年目。
『ようやく先生から一本取れました!』
一年半。
『王都の子供たちに剣を教えることになりました。私、人に教える方が向いてるかも』
二年目。
『今度、初めて実地任務に出ます。怖いけど、逃げません』
二年半。
『ロイはちゃんと頑張ってる? サイさんに泣かされてない?』
そのたびに、俺も返事を書いた。
『毎日泣かされてる』
『障壁はまだ一枚』
『でも、前より当てられるようになった』
『お前が戻る頃には驚かせる』
リンの手紙が届くたびに、あいつも戦っているんだと実感した。
疲れ果てた日には力をもらい、打ちのめされた日には再び立ち上がる理由になった。
だからこそ――三年目に入ったとき。
いつもの時期を過ぎても手紙が届かなかった。
「……遅いな」
最初は、その程度にしか思っていなかった。
相手は王都だ。忙しいのかもしれない。任務に出ているのかもしれない。単に郵便が遅れているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
一週間。
二週間。
一か月。
それでも、リンからの便りは途絶えたままだった。
「…………」
何かあったのだろうか。
嫌な胸騒ぎがよぎる。
けれど、今の俺にできることなんてほとんどない。
王都へ乗り込んだところで、冒険者ですらない俺に何ができる。
だからこそ。
鍛えた。
これまで以上に、狂ったように。
◇
月に一週間ほどは、山小屋へと籠もった。
身体を追い込み、術式の理論を突き詰め、呼吸を研ぎ澄ます。
《障壁》を展開する。
消す。
再び展開する。
位置を一センチ単位で微調整し、角度を傾け、距離を制御する。
五秒で消失。
即座に再展開。
また五秒。
何千回、何万回と、同じ動作を繰り返した。
それでも。
《障壁》の面積は一ミリも広がらなかった。
二枚目が出る兆しもない。
硬貨一枚分。
たったの一枚。
その制約だけは、三年間何ひとつ変わらなかった。
◇
そして――三年が過ぎた。
「ロイ」
「ん?」
久しぶりに、サイのおっちゃんと二人きりで訓練場に向かい合っていた。
俺は十八歳になっていた。
おっちゃんが、あの日と同じように木剣を一本放り投げてくる。
「ルールは覚えてるな?」
受け止めた木剣を見つめる。
三年前、一撃で吹き飛ばされたあの日と同じ感触、同じ重み。
「忘れるわけないだろ」
「そうか」
おっちゃんが、どっしりと木剣を構えた。
「なら話は早い」
訓練場の空気が一変し、肌を刺すような重圧が満ちる。
「三年前と同じ模擬戦をやるぞ」
手の中の木剣を見つめ、短く息を吐いた。
そして。
迷うことなく足元へ放り捨てた。
「……またそれで行く気か」
「こっちの方が、俺らしい」
両手を脱力して構え直す。
右手の前に、硬貨一枚分の《障壁》を静かに浮かべた。
三年前と何ひとつ変わらない、硬貨一枚分の障壁。
だが。
俺自身は、もうあの頃の俺じゃない。
「来いよ、サイ」
自然と口角が吊り上がった。
「三年間の答え合わせをしようぜ」




