第39話 一枚の角度
石穿猪が、水門へ走る。
水の中で重い足が鳴った。右の牙は鉄の留め具を向いている。あそこへ当たれば、木楔を打つ前に板がねじれる。
「エステル、南から!」
「分かってる!」
彼女が細い炎を、魔物の鼻の南側へ置いた。水面には触れさせない。火を嫌った石穿猪が頭を北へ振る。
それでも、牙の先はまだ留め具へ届く角度だった。
俺はそこだけを見る。
右の牙。外へ曲がる先端。鉄に触れる直前の空間。
障壁を正面へ立てたら、魔物の重さを真正面から受ける。必要なのは止めることじゃない。
「《障壁》!」
硬貨ほどの透明な円盤が、牙の外側へ斜めに浮いた。
コッ。
想像より小さな音だった。牙の先が円盤に触れ、鉄の留めをかすめて北へ滑る。ずれたのは、指二本分くらい。
それで十分だった。
エステルの火から逃げるように振った頭へ、胴がついてくる。石穿猪の右前脚が濡れた斜面を滑り、魔物は止まれないまま北の古い横流路へ突っ込んだ。
ドガンッ!
乾いた石壁が欠けた。足元の整備路も揺れ、俺は片足を踏み外す。
「ロイ!」
リンの声。彼女が水門番の後ろから駆け込んでいた。
俺は手すりをつかんだが、肩を石壁に打った。息が止まり、障壁が消える。
魔物は横流路の中で暴れている。倒したわけじゃない。狭い口から戻るまでの時間を、俺たちが使う。
「楔! 今だ!」
水門番と作業者が、留め具の横へ出た。
鉄はまだ揺れていた。打ち込む木の先が石のくぼみから外れかける。
俺は壁にもたれ、もう一度掌を向ける。
水門番が槌の柄で、浮いた鉄を石へ押し戻した。
「ロイ、肩が」
「見えてる。鉄の右だけ」
リンが俺の横へ立ち、横流路の口を剣で警戒する。エステルは一歩先へ出て、戻ってくる魔物の鼻を狙った。
透明な一枚は、もうない。
同時には置けない。さっき牙を外した一枚は消えた。ここから、新しく出す。
「《障壁》」
鉄の頭の外側へ、硬貨大の円盤が斜めに浮く。石から抜けようとする動きだけを止めた。
「入る!」
水門番が楔を石のくぼみへ差す。作業者の槌が上がる。
一打。
木が少し入る。
二打目の前に、掌が冷えた。
「消える!」
俺が叫ぶ。作業者は槌を止め、水門番が柄で鉄を押さえ直した。
円盤がなくなる。鉄が指先ほど戻ったが、木楔は抜けなかった。
「もう一度、置けるか」
水門番が聞く。
「やる」
肩が痛い。脇腹も、呼吸のたびに刺さる。
ここで勢いだけで叫べば、さっきと同じだ。鉄を見る。楔が入る石のくぼみは、その横。俺の盾が受けるのは、水圧ではなく、外れかけた鉄の頭の揺れだ。
「今から」
水門番に言い、掌を開く。
出ない。
横流路で魔物が唸る。リンの剣がその口へ向く。
「まだ出てない!」
「手は離してない」
水門番の返事を聞き、俺は息を一つ吐いた。
もう一度、鉄の先を見る。
「《障壁》!」
透明な円盤が、同じ場所へ現れた。
「入った!」
作業者が槌を振る。木楔の頭が石へ沈む。
だが、最後まで打ち込む前に、北の横流路から石を引きずる音が近づいてきた。
「戻る!」
リンが一歩前へ出る。
俺の一枚は、まだ鉄の先にある。魔物へ向け直す余裕はない。
「そっちは頼む!」
「任せて」
リンの返事と同時に、石穿猪の牙が暗がりから覗いた。




