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第40話 俺が置く一枚

横流路から、右の牙が現れた。


 リンが水門番の前へ出る。石穿猪は狭い通路を抜けようと、欠けた壁へ肩をこすりつけた。


「楔を打って!」


 リンの声に、作業者の槌が振り下ろされる。


 三打目。


 俺の障壁が消えた。


「待て、まだだ!」


 水門番が槌の柄で鉄を押さえ、作業者は手を止める。


「あと一つ!」


 水門番が叫ぶ。


「リン、下がって」


 エステルが横流路の口を狙った。


「ここなら、上に木がない」


 細い《炎矢》が石穿猪の前脚をかすめる。魔物は脚を引き、牙を振った。炎は奥の濡れた石へ当たって消える。


 リンは一歩も引かなかった。剣の先を牙の内側へ差し込み、作業者へ届く前にその向きを外す。


 その隙に、俺は鉄の頭へ掌を向けた。


「《障壁》!」


 透明な一枚が、留め具の外側を押さえる。


「今!」


 槌が木楔の頭を叩く。


 ゴンッ。


 石のくぼみで、木が止まった。


 俺の障壁が消える。鉄の留めは、もう戻らない。水門番が槌の柄をそっと離し、板の揺れを確かめた。


「持ってる」


 木楔は支柱の横を石枠へ押しつけている。板の隙間から水はまだ漏れるが、流れは細くなった。


「終わった?」


 俺が聞くと、水門番は首を振った。


「板は今夜、持つ。修理はこれからだ。まず、あいつを止めろ!」


 石穿猪が、狭い口から半身を出した。


「ロイ、作業者と下がって!」


 リンの声に、俺は水門番たちを階段側へ押した。肩がずきりと痛む。俺も剣を取れたら、と一瞬思う。だが今は、まともに腕が上がらない。


「エステル、右前脚を焼いた。次はそこを踏まない」


「じゃあ、左を塞ぐわ」


 エステルは魔物の左側、石壁の下へ火を走らせた。石穿猪がそちらを避け、傷めた右前脚へ重さをかける。


 脚が折れたわけじゃない。だが、濡れた石で一度滑った。


「リン、今!」


 リンは正面へ行かない。横流路の入口で魔物が首を振る瞬間、狭い壁際を抜け、牙の届かない肩の後ろへ出た。


 剣が一度、短く光る。


 石穿猪が吠えた。リンの刃は分厚い首の皮を裂いたが、浅い。魔物が身体を反転させる。


「リン!」


「見えてる!」


 彼女は剣を引き、壁へ身を寄せた。牙が髪の先をかすめ、石を削る。


 エステルは大きな火を使わなかった。魔物が口を開くのを待ち、細い炎をその喉の奥へ通す。


 石穿猪が頭を上げる。


 その下にできた隙間へ、リンが踏み込んだ。剣の切っ先は喉の柔らかいところを捉える。


 巨体が二歩よろめき、北の乾いた横流路へ戻った。壁にぶつかり、水路の石を鳴らして倒れる。


 しばらく、誰も動かなかった。


 エステルは指を下ろした。リンが剣を構えたまま一歩近づき、魔物がもう起きないことを確かめる。


「終わった」


 その声を聞いて、俺は手すりへ身体を預けた。


     ◇


 倉庫の下は濡れた。古い袋に入っていた穀物も、いくつか駄目になった。


 けれど、上で寝ていた人たちは全員外へ出ていた。リンは約束どおり老人の孫の靴を探し出し、濡れたまま避難先へ届けた。


 水門番が夜の見張りを増やし、石枠の本修理は翌朝から始まるという。


 俺の肩は赤く腫れた。受入所の手当て役に見せると、「今日はもう腕を上げないで」と言われる。


「言われなくても上がらない」


「あんた、言われなかったら試すでしょ」


 エステルが横から言った。


「……少しは」


「ほらね」


 リンが後ろで笑う。彼女の頬には薄い切り傷があった。大したことない、と本人は言うが、手当て役の前へ一緒に座らせた。


 テオが、借りた上着を肩にかけてやってきた。


「ロイ兄ちゃん」


「どうした」


「水門番が言ってた。あの小さい盾がなかったら、木を打てなかったって」


「あの木を打ったのは、あの人たちだ」


「でも、盾を置いたのは兄ちゃんだろ」


 テオは目を輝かせる。


「英雄みたいだった」


 胸の奥で、父ちゃんの昔話が動いた。


 俺は、あの時の黒い円盤を思い出した。村で失ったものも、ここで終わりにはならない。だから、ただ「そうだろ」とは言えなかった。


「リンがお前を上げた。エステルが魔物を寄せた。水門番たちが楔を打った。俺の一枚だけじゃ、誰も助からなかったよ」


「じゃあ、みんな英雄?」


「少なくとも今日は、みんなで助けた」


 テオが満足したかどうかは分からない。だが、彼は「うん」と言い、リンへ先に礼を言いに走った。


 エステルが俺の顔を覗く。


「否定しなかったのね」


「俺だけの手柄だとも言わなかった」


「それでいいんじゃない」


 リンの前で、テオが何度も頭を下げている。彼女は困ったように笑い、最後には同じだけ頭を下げ返した。


     ◇


 翌日、王都ギルド長のヴァルクが受入所へ来た。


 欠片の調査で何か分かったのかと思い、俺は立ち上がりかける。肩を動かす前に、リンに椅子へ戻された。


「欠片そのものは、まだ箱の中だ」


 ヴァルクが先に言った。


「約束どおり、開く時は知らせる。今日は別の記録を持ってきた」


 彼が開いたのは、一枚の古い絵の写しだった。


「欠片に似たものがないか、別の記録庫で古い目録を探した。物の記録には見つからなかったが、絵の棚にこれがあった」


 紙には、盾を持つ人物が描かれていた。その周りに、小さな円が幾つも並ぶ。


 父ちゃんが話してくれた《盾の英雄》を思い出す。でも、その名が絵のどこに書いてあるかは分からない。


「これ、誰なんですか」


「分からない。描いた者の名も、題も残っていない。円が盾なのか、別のものなのかも、まだ判断できん」


「じゃあ、どうして俺に」


「見てほしかった。君の欠片とは無関係かもしれないが、君の術式と似た形に見えた」


 エステルが絵へ顔を寄せた。


「黒いか透明かも、描かれてないわね」


「ああ」


 リンは、描かれた人物の手元を見ている。


「一人で全部を守ったようには、見えないね」


 円の外にも、小さな人影がある。誰かが棒を持ち、別の誰かが子どもの手を引いていた。


 それが絵の意図なのか、俺たちの昨日を重ねているだけなのかは分からない。


「この絵は、後でもう一度見られますか」


「写しを置いていく。元の紙と、欠片の調査は別に続ける」


 ヴァルクが写しを机に置いた。


 小さな円の一つに指を近づける。紙に触れる直前で止めた。


 黒い障壁は、まだ呼べない。呼ぶつもりもない。村のギルド長がどこにいるかも、あの大きな魔物が何だったかも、分からない。


 でも、昨日の水門で俺が置いたのは、透明な一枚だった。


 どこへ置くかを、自分で決めた一枚だ。

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