第37話 右手が止まる
留め具は、目の高さより少し下にあった。
水門番が槌の柄を差し込み、鉄の出っ張りを石へ押しつけている。揺れは指先にも伝わった。
「外れそうなら言ってくれ」
「今は持つ。木楔さえ入れば、ここを俺の手で押さえなくて済む」
俺は留め具と、水路の奥を交互に見た。
石穿猪は水面に鼻を入れ、きしむ音を探している。エステルが整備路の先で立ち位置を変えると、そちらへ耳が動いた。
「あいつを一度、離す」
エステルが俺たちへ言った。
短い火の筋が、魔物の左の牙へ向かう。石穿猪は頭を下げ、熱を水面で消した。今度はエステルへ突っ込む。
「下がれ!」
俺が叫ぶ。
エステルは壁へ背をつけ、ぎりぎりまで待った。魔物が足場の下を通る瞬間、石の縁に火を走らせる。
炎は幅の狭い線だった。魔物は鼻を引き、方向を失って水路の中央へ滑る。
「今なら」
水門番が槌の柄を持ち直す。
木楔はまだない。それでも、次の衝撃まで留めが持つとは限らない。
「俺が、あそこを押さえる」
手のひらを向けた。
透明な一枚を、鉄の先に置く。それだけでいい。
なのに、頭に浮かんだのは黒い円盤だった。何枚も重なり、マレナへ向かっていく。俺の手が、人を見分けなかった時の形。
「《障壁》」
声は出た。
右手が動かない。
視線も、鉄ではなくエステルの背へ行ってしまう。あの時のように、守るつもりで誰かを押し返したら。
ドンッ!
石穿猪が水路の中央から向きを変え、支柱の根元へ突っ込んだ。
「ロイ!」
水門番が槌の柄で留め具を押す。衝撃で、俺の足元の石まで震えた。
鉄の端がわずかに浮く。
手を出せ。
出せなかった。
カン、と鉄が石へ当たり、さっきまで細かった水の筋が、板の隙間から南へ噴いた。水圧を受けた板が一段ねじれる。
「テオ!」
板扉の向こうから咳が聞こえる。
「まだいる! でも、水が膝まで来た!」
リンの声が、倉庫の床を通して響いた。
「上の箱、もう少しで動く! テオ、扉から離れて!」
逃がす道はある。でも、こちらの板が外れれば、上の荷揚げ口まで水が追う。
「悪い」
俺は水門番へ言った。
「今、出せなかった」
「見てた。留めはまだ抜けてない」
水門番は槌の柄を押し続ける。怒っても、手を離すわけにはいかない。
エステルが俺の前へ来た。
「ロイ。どこを見る?」
「鉄」
「今は、私を見てる」
「……怖い」
言葉にしたら、手が震えた。
「黒いのが出たら、お前や、あの人まで押し返すかもしれない」
エステルは俺の手を見た。慰める代わりに、水路の奥を指す。
「私は魔物を向こうへ寄せる。あんたが見るのは鉄だけ。出なかったら、すぐ言って。水門番に手を離させない」
「あんた一人で、あれを止めるのか」
「止めない。向きを変える」
彼女は乾いた北側の横流路を見た。
「水路の出口を見つけさせれば、あそこへ行くかもしれない」
「その前に、留めへ戻る」
「だから、まだ全員を入れない。リンがテオを上へ出す。木楔を持ってきてから、留めを支える。その順番」
水門番が息を吐いた。
「倉庫の補強材に、ちょうどいい木がある。俺の仲間が持ってくる。待ってくれ」
エステルが階段の方へ「楔を急いで!」と叫んだ。返事があった。
俺は掌を下ろし、留め具だけを見た。鉄の先は水面から離れている。あそこに置く一枚は、水を塞ぐものじゃない。
それでも、怖さはなくならない。
「エステル」
「何」
「次も出なかったら言う。黙って手を伸ばし続けない」
「聞こえるように言って」
「分かった」
上で、重い箱が床を滑る音がした。
テオの声も、まだ聞こえる。
俺は二人へ背を向けずに、鉄の揺れを数え直した。




