第36話 焼けない場所
倉庫の階段は、降りる人と上がる人で詰まっていた。
「寝台は先へ。荷物は置いて!」
リンが上の踊り場から声を通す。俺は外へ出る扉を開けたまま、最後の列を数えた。
一人、戻ろうとする老人がいる。
「孫の靴が下に」
「外に替えがあります。今は出て」
俺が言っても足が止まらない。リンが降りてきて、老人の手を取った。
「靴は私が見つけて持っていきます。お孫さんは、もう外ですよ」
老人はやっと頷き、階段を下りた。
リンは約束どおり靴を探すつもりだろう。今じゃないだけで。
外ではダリオが、避難者を広場の反対側へ移していた。左腕を吊ったままでも、人の流れがぶつかる場所を見つけるのは早い。
「上はあと何人だ!」
「二人。俺たちもすぐ下りる」
「下のテオは任せた」
ダリオはそのまま、足の悪い人に肩を貸した。
残っていた二人も外へ出る。俺たちは水門の階段へ戻った。
◇
水門番が格子を外すと、湿った石の匂いが強くなった。主水路の水面より一段高い、細い整備路が壁に沿っている。
リンが先へ出る。
「私が魔物を引く。二人は留め具を見て」
「待って。上は木の梁よ」
エステルが指を上げて見せる。
「大きな火は出せない。私が見ている間に突っ込まないで」
「私も、剣を振る幅がない」
リンが整備路の石壁に肩を当てて確かめた。
「斬るなら、正面の一突きだけ」
「十分怖いけどな」
俺が言うと、リンは短く笑った。
水門番の灯りが、木の支柱と鉄の留め具を照らす。支柱は水の中まで伸び、上半分が石に固定されている。魔物が叩いたのは下の側だった。
「あの小さな鉄の出っ張りが抜けると、板がねじれる」
水門番が指した。
「板全部を支えろって話じゃない。あの留めを戻す間、これ以上ずれないようにしたい」
俺は出っ張りを見る。硬貨一枚を当てるなら、あそこだ。
だが、仮設街区の路地でも、俺の一枚は出なかった。
ドンッ!
石穿猪が支柱へ頭をぶつけた。水が跳ねる。
「来る!」
エステルが整備路から手を伸ばし、短い《炎矢》を石の床へ放った。魔物の目の前で火が弾ける。石穿猪は鼻を引き、整備路の人間へ向きを変えた。
「こっちへ来た!」
「だから引いたのよ!」
リンが前へ出る。牙は人の腕ほど太い。狭い足場から首を狙っても、振れる剣は短い。
リンは突きで魔物の耳の後ろを狙った。剣先が当たる。だが、石穿猪は首を振り、牙で剣を弾いた。
「っ……」
リンの足が整備路の縁で滑る。
俺は彼女の背をつかんだ。脇腹が悲鳴を上げる。リンは自分で足を戻し、俺の手を押した。
「下がって。私は立てる」
魔物は水をかき、俺たちではなく、さっき音を立てた支柱へまた頭を向けた。
「あいつ、俺たちより木のきしむ音を追ってる」
「水音に反応するって言ったろ」
水門番が槌を握りしめる。
「火で驚かせても、戻ってくるのか」
エステルは梁を見上げた。
「もっと強く焼けば動けなくできる。でも、ここで撃てば上の床ごと燃えるかもしれない」
今は避難者を外に出した。だからといって、倉庫を焼いていいわけじゃない。点検廊にはテオもいる。
板扉の向こうから、鐘が一つ鳴った。
「テオ!」
リンが叫ぶ。
「こっちの上に、荷揚げ口がある! 箱が積んであって開けられない!」
テオの声が水音に混じる。
「上から開ける」
リンが即答した。
「私が倉庫へ戻る。ロイ、水門の方を頼める?」
言葉がすぐに出なかった。
リンは、俺が《障壁》を出せない日を知っている。頼んでいるのは、ここにいて見てほしいということだ。
「見てる。出せるとは、まだ言えない」
「それでいい」
リンが走り去る。
水門番は支柱の周りを触り、槌の柄で鉄の留めを押した。かすかに動く。
「板の横の石は、まだ生きてる。木楔が入れば持つ。今は鉄の留めが揺れて、楔を差せない」
水が板の隙間から南へ走る。扉の下に見えた細い線より、太くなっていた。
「何秒あれば打てる?」
「二、三呼吸。だが、石穿猪がまた突いたら、全部ずれる」
俺は水路を見た。怪物は向こうで首を振り、狙う音を探している。
硬貨一枚で、水の重さは受けられない。板も、あの牙も、全部は止められない。
だが鉄の出っ張りなら、今の俺にも届く場所にある。
整備路を二歩進む。あと一歩で、留め具へ手が届く。




