第28話 師匠の近道
橋がなかった。
いや、正確には半分だけ残っていた。東街道を横切る小川の上で、石の路面が途中から崩れ、向こう岸へ届いていない。
「昨日通った商人は、まだ渡れたと言ってたぞ」
御者が手綱を引く。
「この車じゃ無理ね」
エステルが橋の縁を覗いた。下には流れがある。深くはないが、車輪を落とせば負傷者を乗せた車を引き上げられるか分からない。
「一人ずつなら跳べる」
リンは向こう岸との距離を測った。
「お前はな」
俺が言うと、彼女は振り向いた。
「分かってる。荷車は跳べない」
俺たちの後ろで、歩いてきた男がダリオへ近づく。
「あんたが村へ来た時の道、作れないか。怪我人だけでも先へ」
ダリオは崩れた橋を見て、首を振った。
「作れねえ」
「救援の時はできたんだろ」
「あれで力を使い切った。次に同じ距離をつなぐには、まだ日が要る」
「少しだけでも?」
「俺が前に足で踏んだ場所しか、出口にできねえ。今こっち岸から向こう岸へ細い道を開いたところで、車は通れねえし、人を並ばせている間に閉じる」
男は川を見下ろした。
「……そうか」
怒らなかった。ただ、急ぐ人の肩が落ちるのを見るのはつらかった。
ダリオが俺へ視線を向けた。
「まだ聞きたいか」
「一つだけ。あんた、俺の村に来たことがあるのか」
「二年前に仕事でな。東口へ寄った。だからあそこへ道を開けた」
「どうして、今度は入口に使えない?」
「道ごと崩れて形が変わった。覚えた場所と同じだと確かめられねえ。それに、今は開くだけの力がない」
答えは、思ったより普通だった。
俺が硬貨一枚しか出せないように、ダリオにもできないことがある。そう言われれば簡単なのに、あの時の裂け目を見たせいで、どこかで何でもできる人だと思っていた。
「上流に浅いところがあるはずよ」
エステルが地図を広げた。
「森から来た荷車も使う道。ここより遠回りだけど、車輪は渡せる」
「俺が先を見てくる」
ダリオが立ち上がる。リンも剣の柄に手を掛けた。
「私も行く」
「先へ行くだけだ。お前は列へ――」
「だから、見てくる。水が増えているかも」
ダリオが一瞬だけ口を閉じ、笑った。
「そうだな。頼む」
◇
浅瀬に着く頃には、空が赤くなり始めていた。
リンが川へ入り、石の位置を確かめる。膝の下までしかない水でも、車輪には深い。向こう岸の泥が固い場所を選ばないと、また車が傾く。
「ここなら通れる!」
リンの声に、御者が馬を進めた。
途中で一頭が足を止める。水面に自分の影が揺れるのを怖がったのか、首を振った。
「無理に引かないで」
リンは剣の柄から手を離し、馬の横へ立った。濡れた手を見せてから、ゆっくり首筋を撫でる。
「さっきの橋より、こっちの方がいいよ。私も歩くから」
「馬に分かるのかよ」
俺が声をかけると、リンは少しむっとした。
「ロイに言うより聞いてくれるかも」
「それは否定しづらい」
馬が一歩踏み出す。荷車が揺れ、俺は脇腹を押さえた。
エステルがすぐ気づく。
「ほら、痛いんでしょう」
「石を一つ踏んだだけだ」
「石に負けるE級冒険者」
「今だけだからな」
「その台詞、元気になってから言いなさい」
言い合っている間に、車輪が向こう岸の泥を越えた。
列の後ろまで渡し終えると、リンは濡れた靴を脱いで水を捨てた。ダリオが肩へ乾いた布を掛ける。
「《剣聖》は、馬の案内まで覚えるのか」
「師匠が教えたんですよ。剣を振らない方が早い時もあるって」
「……教えた覚えがねえな」
「毎日、言ってました」
師弟で顔を見合わせる。俺とサイのおっちゃんとは、また違うやり取りだった。
◇
夜、宿場の庭で火が小さく燃えた。
手当て役に脇腹を診てもらった。熱はないが、痛みは残る。明日も荷車で休めと言われた。
ダリオは傷めた左腕を布の上から押さえ、右手だけで薪を足す。村でマレナの光を見た時、あの人たちはいつでも何でもできると、俺はどこかで思いかけた。
「腕、まだ痛むんだな」
「痛いさ。見栄張っても治らねえ」
「村では『見りゃ分かる程度の傷』って言ったくせに」
「あの時はそう思った。今は今だ」
ずるい答えだ。でも、嫌いじゃなかった。
「私は、師匠みたいにロイを止められなかった」
リンの声だった。
彼女は火の向こうに座り、剣の鞘を拭いている。
「だから、村の人を助けた」
ダリオが答える。
「それを、お前が選んだ」
リンはまだ納得していない顔で、鞘の汚れをこすった。
「私、あの時、一度ロイの方へ走ろうとした」
「見てた」
「止められて、腹が立った」
「知ってる」
「でも、ニナを受け取ってから、あっちを見られなくなった」
リンが俺を見る。
「まだ助けを呼んでる人がいたから」
俺は彼女に守られたかったわけじゃない。だが、彼女が俺のそばへ来なかった理由を、ようやく本人から聞けた。
「……ありがとう」
「今さら?」
「今さら」
リンが笑った。エステルが火のそばから干した靴を拾い、リンへ渡す。
「濡れたまま寝て熱を出さないでよ。病人は一人で十分」
「一人って、俺か?」
「ほかに誰がいるの」
「……そうだな」
ダリオまで笑った。
明日も、近道はない。
でも、自分の足で進む道を選べたことが、今夜は少しだけ嬉しかった。




