第27話 東街道の荷車
村の屋根が見えなくなっても、俺は何度か振り返った。
荷車の床は、思ったより硬い。車輪が石を踏むたび、脇腹へ痛みが走る。顔をしかめないでいるつもりだったが、向かいのエステルにはとっくに見抜かれていた。
「次の宿場で、もっと厚い敷物を借りるわ」
「このくらい平気だ」
「顔が反論してる」
勝てる気がしないので、俺は黙った。
前には負傷者を乗せた車が一台。そのさらに前を、リンが歩いている。ダリオは列の後方だ。歩ける人たちも十数人ついてきた。
俺は革袋を腰の内側で確かめた。布に包んだ黒い欠片は、動かない。
「落ちないわよ」
「見てたのか」
「さっきから三回目」
「数えなくていい」
エステルが肩をすくめたとき、前の方で馬が鳴いた。
ガタンッ!
荷車が急に止まる。俺たちの車も揺れ、脇腹に鋭い痛みが刺さった。
「何だ!」
前の車の右輪が、道の端へ落ちていた。雨で削られた土が、車輪の重さに耐えられなかったらしい。車体がゆっくり傾いていく。
中には、脚を負傷した冒険者と、老夫婦がいる。
「降ろすわ!」
エステルが飛び降りた。
俺も足を出す。身体が思うように動かない。
車体の下にはまだ、車輪がある。浮いた軸の脇を、子どもがくぐろうとしていた。
「待て、そこは駄目だ!」
傾いた車体が、もう一段落ちる。
あの子の頭上に、木の縁が来る。
掌を向けた。
「《障壁》!」
何も出ない。
黒い円盤が浮かぶ光景が、一瞬だけ頭をよぎった。
手が止まる。
「ロイ!」
エステルの声で、顔を上げた。
車体はまだ落ちきっていない。子どもは土の中に両膝をつき、固まっている。
「出ない! 子どもを引いてくれ!」
エステルが地面へ滑り込んだ。子どもの襟をつかみ、車輪の外へ引き出す。
次の瞬間、車体が沈んだ。
ドンッ!
泥が跳ね、エステルの袖にかかった。
「間に合った……」
「次は中の人よ」
彼女が立ち上がる。
リンが前から駆け戻り、扉を開けた。老夫婦は降りられそうだが、脚を負傷した冒険者は動かせない。馬は綱を引き、車体をさらに道端へずらしている。
「綱を切る?」
リンが剣へ手をやる。
「待って。切ると車体が一気に落ちる」
俺は荷台に積まれた長い引き綱を見た。
三年前なら、まず持ち上げようとしていた。今は分かる。あの車の重さを、俺たち三人で支え続けるのは無理だ。
「リン、その木へ綱を回してくれ。エステル、馬を落ち着かせて」
「あんたは?」
「結び目を作る。座っててもできる」
俺は荷車の縁につかまって降りた。息を整え、引き綱を二重にする。ギルドで荷物運びをしていたとき、何度もほどけない結び方を教わった。
リンが道脇の太い木へ綱を回して戻す。俺は前の車の軸へ結びつけた。
「引くぞ!」
ダリオと歩ける冒険者たちが綱を握る。
「一、二――」
馬がまた暴れた。
エステルがその首を押さえ、低い声で何か囁く。炎は出さない。馬の目がこちらへ向くまで待ち、綱を短く持ち直した。
「今よ」
「三!」
全員で引く。車体が少しだけ戻った。
リンが扉へ入り、老夫婦を順に外へ出す。負傷者の下へ板を差し込み、俺たちの車へ移した。
最後に馬具を外すと、前の荷車は横へ倒れた。
土が崩れて、車輪が半分埋まる。
「……危なかった」
俺は膝へ手をついた。
出なかった障壁のことが、まだ掌に残っている。
「さっき」
エステルが隣へ来た。
「最初に出ないって言ったわね」
「実際、出なかったからな」
「子どもを引く方へ行けた」
「行ったのはお前だろ」
「だから言ってるの。黙って腕を伸ばし続けてたら、私は間に合わなかった」
泥のついた袖を、彼女は見せた。
「礼を言われるのは俺じゃない。お前だ」
「あの子には、あんたが声を出したことも話すわ」
「無理に礼を言わせるなよ」
「誰がそんなことするのよ」
いつもの調子で返す顔に、俺も少し息がしやすくなった。
子どもは父親らしい男の手を握り、無事な道の真ん中に立っている。
俺の障壁は、まだ出せない。
それでも、出ないと口にしたあとで、できる仕事は残っていた。




