第26話 持っていくもの
透明な円盤を、いつもの場所へ。
掌の二十センチ先。三年間、何度も出した距離だ。
「《障壁》」
何も起きなかった。
俺は息を吐き、もう一度手を上げた。
欠片には触れていない。中庭には誰もいない。分かっているのに、黒い円盤が浮かぶところばかり想像してしまう。
「ロイ」
振り向くと、エステルが入口に立っていた。
「マレナに、休めって言われたでしょう」
「立ってるだけだ」
「立ってるだけで、その顔?」
言い返せなかった。
村が壊れてから三日。熱は下がったが、深く息を吸うとまだ脇腹が痛む。いつもの障壁が出ないのは、身体のせいか、頭のせいか、両方か。
「……まだ出せない」
エステルに言うと、思っていたより声が小さくなった。
「そう」
「今、魔物が来たら、俺は役に立たない」
「障壁のことなら、今はね。ほかの役割はあるでしょう」
「それでも、一緒に行くのか」
「私の西の森の調査報告を、王都へ持ち帰る。それに、あの欠片がギルドを狙った攻撃と関係あるのか、私だって知りたい」
エステルは少し顔をしかめた。
「あんたのお守りが仕事だと思われるのは、癪なのよ」
「してくれないのか」
「必要なときはするわ。あんたも私にして。元気になってから」
そう言って、彼女は俺の手を見た。
「今、出ないことは聞いた。街道でも無理に出さなくていい」
「……分かった」
昔なら、そこで格好つけていた。今回はできなかった。
少しだけ、ほっとした。
◇
「荷車で寝ていられるなら、移動はできます」
マレナの許可には、いくつも条件がついた。
揺れの少ない車。重いものは持たない。痛みが増すか熱が出たら、次の宿場で止まる。王都へ着いたら、改めて診てもらう。
「戦うのは?」
俺が聞くと、マレナは包帯を結ぶ手を止めた。
「今、私の前でその質問をしますか」
「……しない」
「しました」
横でエステルが小さく笑った。
マレナは笑わなかったが、俺の肩から手を離すと声を少し和らげた。
「あなたが昨日、布を切ってくれたのは助かりました。動ける範囲を見誤らないでください」
「はい」
「私はここに残ります。まだ移せない方がいますから」
広い光の中にいた人たちの顔を思い出した。マレナも、いつまであの術式を使えるか分からない。今、必要なところへ残るのだ。
避難所の外では、荷車が何台も並んでいた。王都で治療を受ける人、親族を頼る人。
出発前に、俺は奥の寝床へ寄った。ニナと母親は、マレナのいる村に残る。母親の脚には木の添え板が当てられ、ニナは隣で毛布の端を整えていた。
「お兄ちゃん」
ニナが俺を見つけた。
近づいてもいいのか迷った。俺が黒い《障壁》を出していたとき、ニナはすぐそばにいた。
「……お母さん、痛むか」
「まだ痛いけど、動かなきゃ大丈夫」
母親が答え、俺を見る。
「娘を荷車の下から出してくれたのは、エステルさんだと聞きました」
「ああ。俺は……」
「あなたも、あの子を連れて逃げようとしてくれたんでしょう」
違う。エステルに頼まれて、動けなかった。
俺は首を振った。
「何もできなかった。怖がらせたかもしれない」
ニナが毛布を握り直す。
「こわかった」
「……ごめん」
「お兄ちゃんも、こわかった?」
「ああ」
「お母さん見つけてくれたお姉ちゃんたちも、こわかった?」
入口の向こうでは、リンとエステルが荷車へ荷物を積んでいる。
「たぶんな。でも、二人はちゃんと動いた」
ニナは俺の顔を見たあと、母親の手を握った。
何を思ったのかは分からない。俺を英雄と呼んでくれる場面じゃないことだけは、よく分かった。
「マレナが、ここで診てくれる」
「うん」
ニナの母親が、俺へ小さく頭を下げた。
俺も頭を下げて、寝床を離れた。
◇
ダリオは、村の東口で待っていた。左腕の布はまだ取れていない。
「あんたの《折路》で王都まで戻れば、早いんじゃないのか」
俺が言うと、ダリオは崩れた道を見た。
「俺が足で知ってる場所へ、短い間だけ道をつなぐ術式だ。ここへ来るのに使った。もう一度あの長さを開けるだけの余力はねえ」
「村の人を運べたらって、考えた」
「俺も考えたよ。あの細い道をまた開けたとして、何百人も通る前に閉じる。壊れた村に入口を置くのも危ねえ」
ダリオが肩をすくめる。
「俺ができたのは、あの三人で先に来ることまでだ」
「……そっか」
術式が強ければ何でもできるわけじゃない。そんなこと、誰より俺が知っていたはずなのに。
「師匠」
リンが近づいてきた。
「先頭の車を見てきます。脚を怪我した冒険者、揺れると痛むって」
「頼む」
リンは俺の方も見た。
「私は王都へ戻る。でも、言われたからだけじゃないよ」
「分かってる」
「今度は、ロイがちゃんと着くところまで見たい」
「……見張られてる気分だな」
「そう思ってて」
リンが少し笑う。エステルも横から荷袋を放り込んだ。
「見張りが二人いるわね」
「お前はお守りが仕事じゃないんだろ」
「そうよ。仕事じゃないから、嫌なら置いていく」
「嫌とは言ってない」
「なら決まりね」
二人は別々の理由でここにいる。同じ方向を向いているからといって、俺のためだけに来たわけじゃない。その方が、今は頼もしかった。
最後に、サイのおっちゃんが歩いてきた。
「村は俺が見る」
「肩、まだ治ってないだろ」
「お前の肋骨よりはましだ」
「張り合うなよ」
おっちゃんは笑わなかった。
「ギルド長は探し続ける。見つかったら連絡を送る」
「……頼む」
「王都へ行ったら、まず身体を診てもらえ。障壁が出ないなら出ないと言え。二枚も黒いのも、今は追うな」
「分かってる」
「分かってる顔には見えねえがな」
おっちゃんの大きな手が、背中に触れた。いつもなら強く叩かれるところだ。今日は、押さえるだけだった。
「生きて戻ってこい」
「おっちゃんも」
そう返してから、俺は避難所へ戻った。
木箱の中の革袋を取り出す。黒い欠片は布に包まれたままだ。袋の口を締め、腰の内側へ結びつける。
怖さは消えない。
でも、ギルド長から俺へ渡された。俺が運ぶと決めて、受け取った。
荷車へ乗ると、エステルが手綱を引く人へ声をかけた。リンは先頭の車を確かめて戻り、ダリオは列の後ろへ回る。
東街道へ、車輪がゆっくり転がり出した。
俺はまだ、透明な障壁を出せない。
なら、出せないまま何ができるか、まず考える。




