第22話 師匠の間合い
「その物騒なの、しまってもらおうか」
男が一歩、ロイへ近づいた。
黒い《障壁》が三枚、同時に動く。
「危ない!」
私が叫ぶより早く、男は腰の剣を鞘ごと抜いた。
ガキンッ!
男は正面で受けず、鞘の腹を円盤の縁に当てて身をひねった。黒い円盤は男の肩の横を抜け、地面をえぐる。
「……重てえな」
軽い口調とは裏腹に、男の左腕から血が落ちた。勢いを殺しきれず、脇の瓦礫へ腕を打ちつけたのだ。
「師匠!」
離れたところでリンが振り返る。
「こっちはいい。お前はそっちだ!」
男の声に、リンは一度だけ唇を噛んだ。それから剣を抜き、避難列へ迫る灰牙狼の前に出る。
私も動かなきゃ。
そう思ったのに、足が動かなかった。
ロイの周りに浮かぶ黒い円盤が、さっきより増えている。何枚か数えようとして、やめた。見るべきなのは枚数じゃない。あの人がどうやってロイのところへ行くかだ。
「ロイ!」
返事はない。
黒い円盤が私の方を向く。
「……来るな」
いつものロイなら、私にそんなことは言わない。
分かっている。それでも胸が詰まった。
「行かないわよ。今は」
聞こえていなくても、答えた。
そのとき、荷車の下から小さな手が見えた。
「……っ」
母親を探していた、あの子だ。
ロイに連れて逃げてと頼んだのは私だった。けれど、彼の目が変わったとき、私はあの子を連れ戻せていない。
少女は倒れた荷車の車輪の陰で、膝を抱えていた。森から来る魔物とロイの間に挟まれている。
「そこにいなさい」
私が駆け出すと、黒い円盤が一枚、動いた。
「ロイ、違う!」
私へ向いているのか、少女へ向いているのか分からない。
だったら、二人とも射線から外す。
掌に炎を灯し、道の反対側へ細く走らせた。
ボッ、と短い音。ロイの目が炎を追い、黒い円盤も向きを変えた。その隙に荷車へ滑り込み、少女を抱き上げた。
「お母さん……」
「探す。約束するから、今は私の首につかまって」
少女の腕が首へ回る。軽いはずなのに、膝が折れそうになった。
炎を続けて使いすぎた。指先も震えている。だけど立ち止まれば、この子もここに取り残される。
「リン!」
灰牙狼を退けた彼女が、こちらを見た。
「この子を東の避難列へ。母親を探してる」
「分かった」
リンは少女を受け取ると、すぐに顔の高さまで身をかがめた。
「名前、教えてくれる?」
「……ニナ」
「ニナ。私と一緒に行こう。お母さんも探す」
ニナが私の袖を放すまで待ってから、リンは立ち上がった。剣を持たない方の腕に少女を抱き、混乱する人の流れへ入っていく。
あの子は、これで離れた。
けれど、まだロイがいる。
◇
男は、ロイの正面へは進まなかった。
壊れた塀と瓦礫の間を、ゆっくり横へ回っている。
「……どこに行く」
ロイの声がした。
「お前のところだよ」
「来るな」
「それは無理だな。お前があの人に手を出した」
男が顎で、治療の女性を示す。
彼女は地面に膝をついたままだ。淡い光の輪を維持し、倒れている人を指差して、周りの冒険者へ何か指示している。逃げられない。
「あれは……敵だ」
「違う」
「みんな、奪いに来る」
ロイの手が上がった。
黒い円盤が治療者の方へ滑る。
「ロイ!」
私は炎を放った。円盤そのものを焼くためじゃない。治療者とロイの間の地面へ、横一線の火を引く。
熱に、ロイが顔をそむけた。
「今!」
男はすでに走っていた。
空間を抜けたようには見えない。足で瓦礫を蹴り、ロイの視線が戻るより先に間合いへ入ったのだ。
ガッ!
鞘がロイの右手首を打つ。そこへ向かっていた円盤が、治療者の前ではなく、誰もいない石壁にぶつかった。
男が左手を伸ばす。
「肋骨!」
私は叫んだ。
「ロイ、そこをやられてる!」
「分かった!」
男は胸を押さえる代わりに、ロイの肘と肩を抱え、足を払った。
二人が崩れる。
「っ……!」
ロイの周りに黒い円盤が浮かぶ。男の背中へ向いたように見えた一枚に、私の炎は届かない。
「離れろ!」
男が怒鳴った。私に向けた言葉だ。
「でも――」
「今は俺を狙ってねえ!」
見ると、黒い円盤は私の方へ向いていた。
私を遠ざけようとしている。守ろうとしているつもりで。
「……馬鹿」
私は後ろへ下がった。二歩だけ。
円盤の向きが揺れる。
男はその間に、ロイの両腕を地面へ押さえつけた。傷ついた左腕が震えている。
「ロイ。聞こえるか」
「……守る」
「誰を」
「……全部」
「全部って言うと、誰も見えなくなるぞ」
ロイが身をよじる。
男の額に汗が浮かんだ。
「お嬢ちゃん!」
今度は私を呼んだ。
「こいつの名前を呼べ。近づくな、そのままで」
「ロイ!」
黒い円盤が跳ねた。
「ここにいるわ!」
「……エステル?」
「ええ。あんたが守るって決めた相手よ。でも、あんたが誰かを殺すのは見たくない」
ロイの目が、ほんの一瞬だけ私を見た。
黒い円盤の動きが鈍る。
男が力を緩めたわけじゃない。ロイの腕を押さえたまま、動かずに待つ。
「……俺、は」
声がかすれた。
その後は、言葉にならなかった。ロイの力が抜け、頬が地面へ落ちる。
「ロイ?」
黒い円盤が、一枚、また一枚と消えていく。
私は駆け寄った。
「ロイ!」
「息はある」
男がロイの首筋へ指を当てる。すぐに彼の身体を横向きにし、口元を確かめた。
「消耗しきってた。押さえたのは俺だが、気を失ったのは――」
「分かってる」
最後まで聞かずに、私は膝をついた。
ロイの手が開いている。掌には、黒い欠片が残っていた。
触れるのが怖かった。
私は袖の内側から布を引き出し、欠片を包んだ。熱くも冷たくもない。細い光も、今は見えない。
革袋へ戻し、口を固く結ぶ。
何だったのか、まだ分からない。ただ、彼がこれを取り出してから、黒い《障壁》が現れた。それだけは忘れちゃいけない。
男が顔を上げた。
「俺はダリオ。こっちはマレナだ」
治療を続ける女性を見る。
「ロイを運べるか」
「運ぶ」
「ああ。俺も持つ」
ダリオの左袖が血で濡れていた。
「あんたの腕は?」
「あとでいい」
「よくないわよ」
「……リンといい、あんたといい、手当ての順番にうるせえな」
私は返事をしなかった。
森の方から、また獣の声が聞こえたからだ。
ロイは止まった。まだ村は助かっていない。
それでも、私の腕の中の彼は、確かに息をしていた。




