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第19話 すべては、あれから逃げていた

 空の亀裂が、少しずつ閉じ始めていた。


「…………」


 黒い穴の向こう。

 あの何かの姿は、まだはっきりとは見えなかった。


 けれど。

 さっきまで壊れた村を見下ろして、笑っているように感じたあいつが、今度はひどく苛立っている気がした。


 まだ、こちら側へ来たい。

 まだ、何かをしたい。

 なのに、閉じていく亀裂に阻まれて、それができない。


「くそ……」


 拳を握る。


「このまま……逃がすのかよ」


 ギルドを壊した。

 村をめちゃくちゃにした。

 大勢の人を巻き込んだ。


 それなのに、俺は何一つできない。


「くそっ……!」


 もっと、俺に力があれば。


「あいつを止められるくらいの……力が……!」


「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ」


「…………」


 隣から、エステルの声が飛んできた。


「今は、あいつが去ってくれることを喜びなさい」


「でも!」


「でもじゃない!」


 エステルが俺を睨んだ。


「今の私たちに、あれをどうにかできる方法があったと思う?」


「…………」


「ないわ」


 はっきりと言い切った。


「悔しいけどね」


 エステル自身も、閉じていく空を睨んでいる。

 握った拳は、白くなるほど力が入っていた。


「それに――」


「――――――――ッ!!」


 あの声が、空から降ってきた。


「っ……!」


 身体の奥まで震える。

 怒りも、悔しさも、全部まとめて叩きつけてくるような咆哮だった。


 その声が途切れるより先に、森でいくつもの鳴き声が上がった。

 獲物へ飛びかかるときの唸りじゃない。

 悲鳴みたいな、甲高い声。


 ふいに、エステルの表情が変わった。


「ロイ」


「……何だ?」


「耳を澄ませて」


「何を――」


 ドドドドドドドド――。


「…………!」


 遠くから、地鳴りが聞こえた。

 一つや二つの足音じゃない。大量の何かが、地面を揺らしながらこっちへ向かっている。


 木々が折れる音。

 何匹もの獣の鳴き声。


「……魔物」


「ええ」


 エステルが森を見る。


「スタンピードよ」


「…………」


 分かっていたことだ。

 だから百人を超える冒険者が集められ、ギルド長も残った。森から逃げてくる魔物を食い止めながら、住民を逃がすために。

 キングオークを倒したからって、すでに森から押し出された魔物が急にいなくなるわけじゃない。


 ただ。


「……おかしい」


「気づいた?」


 エステルが俺を見る。


 ああ。さっきまでとは勢いが違う。

 獣臭も、足音も、鳴き声も。あの化け物が姿を現す前より、濃い。速い。近い。


 森の縁で、いくつもの影が木々の隙間へ殺到した。

 一頭が背後を振り返り、横から来た別の影にぶつかる。それでも、どちらも止まらない。


 こっちを獲物として狙っているんじゃない。

 あいつらは、後ろを怖がっている。


「ロイ」


「ああ」


 ずっと疑問だった。

 どうしてキングオークほどの魔物が、自分の縄張りを捨ててこんな場所まで来たのか。


 キングオークが逃げてきた理由は別にあると、サイのおっちゃんも言っていた。

 荷馬車でも、エステルとその話をした。


「…………」


 ほとんど閉じかけた空の亀裂を見る。


「……キングオークも」


 喉が乾いた。


「あいつから、逃げてきたんだ」


「…………」


 エステルは否定しなかった。


「……たぶんね」


 灰牙狼も、跳爪猿も、黒牙蛇も。キングオークに縄張りを追われたのだとしても、その王自身があれから逃げていたのなら、元は同じだ。

 そして今の咆哮で、逃走に拍車がかかった。


 しかも、村の防衛線はさっきの一撃でめちゃくちゃだ。柵は壊れ、道は大きく抉れ、迎え撃つはずだった冒険者たちも避難誘導や救助のために散らばっている。


「くそっ……!」


 そのとき、亀裂の奥で何かが動いた気がした。


 ニタッと。


 笑ったように。


「…………」


 口元なんて見えていない。

 それでも、さっき壊れた村を見下ろしていたときと同じ、嫌な感じがした。


 押し寄せる足音が、背中を震わせる。


 あいつ。

 こうなると分かっていて、叫んだのか?


 そう思った途端、あの笑いの意味まで分かった気がして、背筋が冷えた。


 黒い亀裂が、細くなる。

 俺が睨み返した先で、最後の隙間が空へ溶けるように消えた。


 もう、あいつはいない。


 ドドドドドドドド――!


 なのに、足音は止まらなかった。


 あいつに怯えて逃げてきた魔物だけで、まだ人が死ぬ。


「ロイ」


「……何だ」


 エステルが森を睨んだ。


「来るわ」


「…………」


 地鳴りが、さらに大きくなる。


「魔物の大群が」

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