第14話 一枚では、二人を守れない
煙の向こうから現れたその怪物は、オークという種族の枠を完全に踏み越えていた。
俺の倍近い背丈。
丸太のように太い腕と、異様に盛り上がった肩と背中。
濃緑色の皮膚には無数の古傷が刻まれ、胸元には仕留めた獲物の骨を連ねた首飾りが揺れている。
頭上に冠するのは、歪に捻じれ合わさった漆黒の角。
そして片手には、人間の胴ほどもある巨大な両刃斧が握られていた。
「……あれが本物か」
「キングオークよ」
エステルが俺の前に進み出た。
「ロイ、下がっていなさい」
「一人でやる気か?」
「ここからは私の領分よ」
「だが、本当に体は保つのか?」
俺はエステルの横顔を盗み見た。
さっきまでのいつもの余裕は消え失せている。
肩は激しく上下し、呼吸も浅い。
「雨で術式を扱いにくいんだろ。それに、さっきあれだけの大技を撃った直後じゃないか」
「相手が回復するまで待ってくれるなら、私だって休みたいわよ」
エステルが鋭い眼差しで怪物を射抜く。
「でも――」
ズシン。
巨躯が一歩、大地を踏みしめた。
「向こうにその気はないみたいね」
言葉こそ強気だが、肉体の疲弊は隠しようもない。
さっきの《紅蓮の雨》で、彼女がかなり消耗しているのは明らかだった。
「先手必勝よ」
エステルが右手を突き出す。
「《炎槍》!」
凝縮された火炎の槍が、直線の軌道を描いて撃ち出された。
ボオッ!
狙いはキングオークの無防備な胸元。
あれほどの巨体だ、的を外すはずがない。
それに、あの重厚な体躯で敏捷に動けるはずが――そう確信した、次の瞬間。
キングオークの巨影が、視界から掻き消えた。
「…………え?」
エステルの呆然とした声。
違う、消えたのではない。
巨体に似合わぬ爆発的な初速に、動体視力が追いつかなかったのだ。
「エステル!」
右側。
すでに間合いの内側に入り込んでいた。
頭上高く振り上げられる、凶悪な巨大斧。
「《障壁》!」
考える間もなく右手を伸ばす。
エステルと斧の刃先が交差する、その絶対の衝突点へ。
硬貨一枚分の《障壁》を、斜め四十五度の傾斜をつけて展開した。
ガァァァンッ!
「ぐっ……!」
鼓膜を劈く金属衝撃音。
障壁そのものはビクともしない。
だが、振り下ろされた質量のエネルギーまで消滅するわけではないのだ。
受け止めるな。滑らせろ。
斧の刃先が障壁の表面を滑り、わずかに軌道が外側へと逸れる。
そのまま、足元の地面へ――。
ズドォォォンッ!
泥と岩が激しく爆散した。
巨大斧が根元まで大地にめり込む。
「っ……!」
エステルが転がるように後方へ飛び退いた。
「ぼさっと突っ立ってると真っ二つだぞ!」
「分かっているわよ!」
「今の絶対反応できてなかっただろ!」
「うるさい!」
「グ……」
斧を引き抜く怪物の巨躯が、不気味に揺れた。
「グハッ……グハハハハハハハッ!」
「……笑ってやがる?」
怒りではない。
渾身の一撃を紙一重で逸らされた事実を、歓喜とともに噛み締めているのだ。
「こいつ……戦うことそのものを楽しんでやがるのか」
最悪の相手だ。
「エステル」
「何よ」
「共闘するぞ」
「……最初からそのつもりよ」
「さっき一人でやるとか見栄を切ってただろ」
「状況が更新されたの!」
「はいはい」
俺は油断なくキングオークの間合いを測る。
「あいつの踏み込みの速度、お前のような後衛タイプとは相性が最悪だ」
「言われなくても分かっているわ」
「俺が軌道を逸らす。攻撃の出鼻を挫いて隙を作るから、その一瞬にお前の最大火力を叩き込め」
「何を撃てと?」
「俺にぶっ放したやつだよ」
「……《星墜灼光》を?」
「あれなら確実に沈められるだろ」
「簡単に言わないで。あれは私にとっても、まだ完全には扱いきれていない大技なのよ」
「そうなのか?」
「さっきは出力を極限まで絞って、射線も細くしていたから成立したの。今は豪雨まで降っているのよ。あの技を撃つには、集中する時間が必要だわ」
「どれくらい保たせればいい?」
「分からないわ」
「おいおい」
「相手がサンドバッグみたいに突っ立っていてくれるなら、一瞬で終わらせてあげるけれど?」
不気味に斧を構え直す怪物を睨み据える。
「……絶対に突っ立ってはくれないな」
「でしょうね」
◇
ズドンッ!
泥を爆砕する踏み込み。
巨体が風を置き去りにして近づく。
上段からの唐竹割り。
さっきと同じ軌道――。
「……下ろしてこない!?」
違う。
肩の動きが途中で制止し、腰が鋭く旋回する。
「横薙ぎか!」
斧が水平の斬撃へと変異する。
「《障壁》!」
咄嗟に斜め下方へ障壁を滑り込ませる。
だが――。
「ぐっ――!?」
殺しきれない。
遠心力に乗った衝撃が、障壁越しに腕を伝って全身へ突き抜ける。
「うわっ!」
体が宙に浮いた。
滞空。体勢が崩れ、回避運動が取れない。
怪物の裂けた口元が三日月のように歪む。
「グハッ!」
死んだ――本気でそう直感した。
「《炎矢》!」
シュンッ!
「グオオッ!?」
真紅の矢が、キングオークの背筋へ深々と突き刺さった。
追撃の軌道がわずかに逸れ、俺の体は泥水の中をごろごろと転がった。
「た、助かった……!」
「馬鹿! 死ぬ気なの!?」
「今のは俺も死んだと思ったよ!」
「威張って報告するんじゃないわよ!」
泥を払いながら跳ね起きる。
「……こいつ、ただ力任せに暴れてるだけじゃない。戦術を組み立ててやがる」
「B級魔物よ。ただ図体がデカいだけなら、C級止まりで済んでいるわ」
「付け焼き刃の読みだけで立ち向かったら、一瞬でミンチにされるな」
「今さら気づいたの?」
「今さら気づいたよ」
すべての攻撃を先読みして防ぐことなど不可能だ。
読める挙動だけを拾い、躱せる一撃は泥を這ってでも躱す。
どうしても見切れない致命打にだけ、《障壁》を滑り込ませて受け流す。
サイのおっちゃんに叩き込まれたのは、予知能力などではない。
死の確率を極限まで削り落とし、生き残るための泥臭い選択の連続だ。
◇
「作戦は継続だ。《星墜灼光》の構築を急げ!」
「分かったわ!」
「完成するまで、こいつの視線は俺が全部引き受ける!」
「死なないでよ!」
「善処する!」
「善処じゃ困るって言ってるでしょうが!」
キングオークが泥を巻き上げながら斧を振り上げる。
身を沈めて回避。
その代償として、奴の分厚い腹筋が無防備に晒された。
「今度はこっちの番だ!」
「《障壁》!」
右拳の先端、わずか数センチに硬貨大の盾を固定。
踏み込み、腰の回転を乗せて突き出す。
「はあっ!」
ドゴッ!
「グフッ!?」
《障壁》を乗せた打撃が、怪物の腹へ深く入る。
「手応えあり……!」
キングオークが右上方から斧を振り下ろす予備動作。
「…………」
違う。
足元の重心が、振り下ろしの構えになっていない。
「またフェイントかよ!」
途中で斬撃の軌道が真横へスライドする。首を刈り取る水平の一閃。
「読めてるんだよ!」
頭を下げ、泥に這いつくばるようにして刃をやり過ごす。
頭上を通過する風圧。
「喰らえっ!」
下からの跳ね上げ。
ガンッ!
障壁を先端に乗せた渾身のアッパーカットが、怪物の顎を正確に跳ね上げた。
「グオオオオオッ!」
同じ手を二度食らうほど、元A級冒険者の地獄のシゴキは甘くない。
だが、完全に優勢に立てたわけではない。一度見た軌道だからこそ対応できたにすぎないのだ。
「エステル!」
「まだか!」
「もう少しよ!」
「早めにお願いしたいんだが!」
「極限集中してるんだから話しかけないで!」
「聞いた俺が悪かったよ!」
◇
雨脚は、もはや視界を遮るほどの豪雨となっていた。
足元は泥と化し、踏ん張りが利かない。
「グハッ……」
怪物の醜悪な顔に、獰猛な笑みが戻っていた。
「今度は何をやらかす気だ……」
怪物が、泥まみれの太い足で地面を力任せに踏み抜いた。
バシャァァァッ!
「なっ!?」
視界を完全に遮断する泥水のカーテン。
「くっ!」
咄嗟に腕で目を覆う。
――遅かった。
「っ――《障壁》!」
ガァァァンッ!
「ぐふっ……!」
視界を奪われた死角から、巨斧の一撃が叩き込まれた。
受け流す角度の調整すら間に合わず、俺の体は木の葉のように数メートル後方へ吹き飛ばされる。
「がはっ……!」
背中から泥水へ叩きつけられた。
胴体を両断される直前、辛うじて軌道上に障壁を滑り込ませたが、衝撃そのものは殺しきれなかった。
「……あばら、何本かヒビが入ったか……?」
「ロイ!」
「俺はいいから技の準備を続けろ!」
大丈夫なはずがない。
だが、ここで準備を中断させれば、全部やり直しになる。
「……分かったわ!」
エステルが歯を食いしばり、再び集中する。
「ロイ!」
「できたわ!」
泥の中から顔を上げる。
エステルの両手の間に、真紅の炎が一点へと凝縮されていた。
降り注ぐ雨粒が地面に届く前に蒸発し、白い蒸気が立ち込める。
紅蓮の光輪。その中心で、目を焼くほど純白に輝く極小の恒星。
「隙を作りなさい!」
「応っ!」
その瞬間、キングオークの瞳から嘲笑の色が消え失せた。
エステルの手元に集まる異様な熱を、本能で察知したのだ。
「グオオオオオオオオオッ!」
怪物は俺を一瞥もせず、猛然とエステルへ向かって疾走を開始した。
右、左、立ち木を盾に挟み、さらに右へ。
「ジグザグに……射線を外してやがる!」
「くそっ!」
「エステル、まだ撃つな!」
「分かっているわ!」
十メートル、八メートル、六メートル――。
「そこを動くなぁぁぁっ!」
俺は泥を蹴って真横から割り込み、エステルの前に立ちふさがった。
「ここから先は通行止めだ!」
「グオオオオオッ!」
怪物の咆哮とともに、巨大斧が真っ向から振り下ろされる。
その瞬間――。
「グギャァァァッ!」
「……え?」
背後から、不吉な叫び声が響いた。
さっきの《紅蓮の雨》を生き延びていた手負いのオークが、王の咆哮に呼応して茂みから現れ、手にした粗末な槍をエステルの無防備な背中へ向けて投擲したのだ。
「なっ――!?」
正面からは、俺を真っ二つにしかねない巨大斧。
背後からは、《星墜灼光》の準備を終えたエステルへ飛来する槍。
二つの死線が、完全に同時に到達する。
「…………」
俺の《障壁》は、たったの一枚。
俺自身を守れば、背後のエステルが串刺しになる。
エステルを守れば、俺の頭が両断される。
どちらか一人を選べと、残酷な現実が突きつけてくる。
「…………」
俺が目指した英雄って、そんな理不尽に屈する存在だったか?
ここで俺が死んだら、誰がリンを迎えに行ってやるんだ。
死ぬわけにはいかない。
けれど、背中を預けてくれた相棒を見捨てるなんて選択肢は、俺の辞書には存在しない。
迫り来る斧刃。
飛来する投槍。
ドクン。
「…………っ!」
胸の奥底で、何かが激しく脈打った。
三年前。
『俺がお前を守ってやる』
あの時、心臓の奥で歯車が噛み合った感覚。
あれと同じ――いや、遥かに強烈な覚悟が全身を駆け巡る。
どちらか一方を切り捨てるだと?
ふざけるな。
俺自身も、エステルも――。
「――どっちも守り通すに決まってんだろぉぉぉっ!」
両腕を左右へ力任せに薙ぎ払う。
「《障壁》ッッッ!」
ぽすん。
正面の斧の刃先へ。
ぽすん。
背後の槍の穂先へ。
「…………え?」
二枚。
透明な円盤が、確かに同時に空間を固定していた。
ガァァァンッ!
キングオークの巨斧が、斜めに弾き飛ばされる。
ギィィンッ!
エステルの背中に迫った槍が、空中で甲高い音を立てて弾かれた。
二枚の障壁。
三年間、どれほど血の涙を流しても顕現しなかった奇跡。
「ロイ!」
エステルの叫び声で、一瞬で我に返る。
斧を弾かれたキングオークは、大きく体勢を崩していた。
その分厚い胸板が、無防備に晒されている。
「今だぁぁぁぁっ!」
「言われなくても!」
俺は泥水の中へ身を伏せ、射線を完全に開放した。
その先には、体勢を崩したキングオーク。
そしてその正面に――エステル。
両手の間に宿る光は、もう炎と呼ぶには眩しすぎた。
中心は白熱の恒星。
その外周を、彼女の髪と同じ鮮烈な真紅の火炎が、猛烈な螺旋を描いて渦巻いている。
豪雨は近づくことすら許されず、瞬時に蒸気へと消し飛ぶ。
白い霧の中、ただ一つの小さな星が輝いていた。
「これで――」
エステルの赤髪が、熱風に激しく煽られる。
「終わりよ」
怪物が初めて、その瞳に絶対の絶望を宿した。
「――《星墜灼光》」
一瞬、森からすべての音が消滅した。
次の瞬間。
白熱する光の芯を真紅の螺旋が包み込み、一直線に怪物の巨躯を貫通した。
キィィィィィィィン――!
赤い閃光、白熱の奔流。
キングオークの巨体が、光の濁流の中へと飲み込まれていく。
輪郭が灼熱の光の中に溶け、消滅する。
そして――遅れて轟音が大地を揺らした。
ドォォォォォォォン――!
凄まじい熱風が吹き抜け、周囲の雨粒が一瞬で蒸気へ変わって、真っ白な霧が立ち込める。
やがて。
眩い光が収まり、激しい雨音だけが戻ってきた。
蒸気の向こう側。
そこに、怪物の姿はなかった。
ただ、主を失った巨大な戦斧だけが、黒く焼け焦げた大地の上に転がっていた。
「……勝ったのか?」
「ええ」
エステルの掠れた声が響いた。
「勝ったわよ」
◇
「……ロイ」
「ん?」
エステルが、俺の右手と左手を交互に見つめてきた。
「あなた今……間違いなく二枚同時に展開していたわよね?」
「…………」
「……ああ、出てたな」
「出せないって言っていなかったかしら?」
「三年間、一度たりとも出たことなんてなかったんだよ」
「じゃあ、今の奇跡は何なのよ」
「俺が一番聞きたいよ!」
俺は両手を突き出してみた。
「《障壁》!」
ぽすん。
右手の前に一枚。
「もう一枚出ろ!」
「…………」
静寂。
「……出ないな」
「なんなのよ、あなたの術式は!」
「だから俺が一番教えてほしいんだって!」
「両手を使ったからじゃないの?」
「やってみる」
「《障壁》!」
ぽすん。
やっぱり、一枚。
「……関係ないみたいね」
「そのようだな」
「命の危機に瀕したから?」
「検証のために俺を殺しかけるのは絶対にやめろよ」
「まだ何も言っていないでしょう」
「お前なら平然とやりかねないだろ」
「失礼ね」
けれど、一つだけ心当たりがあった。
三年前、旅立つリンに向かって。
『俺がお前を守ってやる』
そう口にした瞬間、胸の奥で歯車が動いた。
そして今日。
エステルも、自分自身も、どちらも決して見捨てないと決意した瞬間。
まったく同じ感覚が胸を突き抜けたのだ。
「……守る、か」
「何?」
「いや、なんでもない」
まだ確証はない。
だが、三年間どれほど足掻いても微動だにしなかった《障壁》が。
今日、この戦いの中で、初めて一の限界を突破した。
ほんの一瞬、たった一度きりの現象だったとしても。
確かに俺の《障壁》は、新たな扉を開きかけていた。




