第11話 森から逃げてきたもの
西の森へ入ってしばらく。
最初に違和感を覚えたのは、鼻腔を突く臭気だった。
「……臭うな」
いつもの森ではあり得ないほど、濃密な獣臭が漂っている。
湿った土や草木の匂いを押し退けるように、何種類もの魔物の体臭が入り混じっていた。
エステルも不快そうに鼻を覆う。
「ひどい悪臭ね。まだ森の浅い場所なのに」
「……声を落とせ」
「え?」
「すぐ近くにいる」
俺は屈み込み、足元の土壌を観察した。
柔らかい土に、いくつもの足跡が残っている。
「これを見ろ」
「足跡……?」
「ああ。灰牙狼のものだ。それと……こっちは跳爪猿か」
視線を近くの巨木へ移す。
樹皮には鋭い爪痕が深く刻まれ、さらに根元の低い位置には、太い大蛇が這い回ったような擦過痕が残っていた。
「黒牙蛇の這い跡まである」
「そんなに多くの種類が?」
「普通じゃない」
「何がよ」
「こいつらは本来、同じ縄張りに共存する魔物じゃないんだ」
灰牙狼は平地の茂みを群れで徘徊する。
跳爪猿は樹上を生活圏とする。
黒牙蛇は湿地帯を好んで潜む。
生息環境も習性も、まるで異なるはずだった。
「これって……何かの前触れかしら」
「その可能性が高い」
少なくとも、三年間ギルドでこの森の記録を洗ってきたが、こんな異常事態は過去に一度も起きていない。
「これだけの情報でも、ギルドや王都へ持ち帰る価値は十分にある」
俺は立ち上がった。
「どうする? 一度引き返すか?」
エステルが俺を見つめ返してくる。
「あなたはどう判断するの?」
「俺?」
「私はこの地方に来て日が浅いわ。現場の空気を一番知っているのはあなたでしょう」
「……異常事態だ」
俺は迷わず即答した。
「俺の判断なら、即座に撤退だ。人を集めて大規模な調査隊を組むべきだ」
「そう」
エステルはしばし沈思黙考した。
「理に適った意見ね」
「お」
「何よ」
「また褒めてくれた」
「調子に乗らないで」
エステルは再び森の奥へ視線を向けた。
「ただ……もう少しだけ奥の状況を確かめたいわ」
「本気か?」
「規模感が掴めないもの。何体蠢いているのか、どこから押し出されてきたのか。それだけでも特定できれば、本隊の初動がまるで違ってくる」
「だが――」
「私の術式評価はSよ」
赤髪が風に揺れる。
「危険を察知すれば、即座に全火力で活路を開いて離脱できる。そのくらいの芸当は朝飯前よ」
そして、俺の顔を覗き込んできた。
「あなた一人くらいなら、抱えてでも逃げ切れると思うしね」
「……またその言い草か」
「事実でしょう?」
「俺を庇う前提で話を進めるなよ」
「なら、自分で自分の身を守れるの?」
「今からそれを見せてやるよ」
俺が言い放った、その直後だった。
グオオオオオオオオ――!
「っ!」
大気を震わせる獣の咆哮。
近い。
「嗅ぎつけられたようね」
エステルの瞳が戦闘者の鋭さを帯びる。
「この密集地帯じゃ、広い範囲をまとめて焼く技は使えないわ」
「森全体に火が回るからな」
「だから各個撃破でいくわよ」
エステルが俺の前に立ちふさがった。
「ロイは私の背後にいなさい」
「ちなみに一つ確認していいか?」
「何よ」
「誰かを背中に庇いながら戦った経験は?」
「…………」
「エステルさん?」
「……ほとんどないわよ」
「おいおいおい!」
「仕方ないでしょう! 今までずっと単独任務ばかりだったんだから!」
「よくそれで俺を守るとか大口叩けたな!」
ガサリ、と前方の茂みが大きく波打った。
「自分の身くらい自分で守る!」
「ちょっと!」
「だからお前は――」
「《障壁》!」
ぽすん。
「目の前の敵だけに全力を注げ!」
茂みから灰色の巨躯が飛び出してきた。
灰牙狼。
D級魔物。群れで死角から喉笛を狙う狡猾な捕食者。
「グルァァッ!」
剥き出しの牙が俺の首筋へと迫る。
右拳を引き絞る。拳のわずか数センチ前方に《障壁》を展開。
「はあっ!」
ガンッ!
「ギャウッ!?」
牙を《障壁》で弾き、そのまま拳が顎を跳ね上げた。
灰牙狼の巨体が真横へと吹き飛ぶ。
「……まず一体」
「…………」
エステルが信じられないものを見る目で俺を凝視していた。
「何だよ」
「あなた……やけに実戦慣れしてない?」
「本当にE級なの?」
「残念ながらな」
ガサガサガサッ!
「っと!」
三方向から同時に気配が弾けた。
地を駆ける灰牙狼。
頭上の枝から急降下する跳爪猿。
草叢を音もなく滑り込む黒牙蛇。
「めちゃくちゃだな!」
本来なら獲物を奪い合うはずの魔物たちが、見境なく雪崩れ込んでくる。
乱戦。
想定外の混戦に、全身の筋肉が強張る。
落ち着け。
一体ずつ、一瞬ずつだ。
背後に大木を背負い、包囲の射線を限定する。複数が同時に飛び込めない角度へ位置を補正。
「まとめて来い!」
◇
「よし――これで五体目!」
「はぁ……はぁ……っ」
魔物との本物の殺し合い。
サイのおっちゃんとの模擬戦とはわけが違う。一歩間違えれば、本物の牙が食い込み、本物の爪が身体を裂く。
「エステル!」
息を整えながら振り返る。
「そっちは大丈夫――」
喉まで出かかった言葉が凍りついた。
エステルの足元には、すでに十数体もの魔物が転がっていた。
「十五」
「何が?」
「こっちは十五体目よ」
「討伐数数えてたのかよ!」
「数えるくらいの余裕はあるわ」
エステルが指先を軽く払う。
「《炎矢》」
放たれた火炎の矢が、飛びかかってきた灰牙狼の眉間を寸分の狂いもなく貫通した。
「十六」
「…………」
これが、S級術式の火力か。
「まあ」
エステルは肩越しにちらりと俺を見やった。
「その様子なら、お荷物にはならずに済みそうね」
「今さら気づいたのかよ」
「別に褒めてはいないわよ」
その時だった。
「きゃあああああっ!」
「っ!?」
森のさらに奥深くから、引き裂かれるような悲鳴が響き渡った。
人間の声だ。
俺とエステルの視線が弾かれたように交差する。
「今の声……人間だよな?」
「そう聞こえたわ」
「助けに行くぞ!」
「待ちなさい!」
駆け出そうとした俺の腕を、エステルが強く掴んで制止した。
「周囲にはまだ残敵がいるわ。それに、この異変の根本的な原因すら特定できていないのよ」
「だからって!」
「無策に飛び込んで私たちまで包囲されたら、救える命も救えなくなるわ!」
「…………」
正論だ。
痛いほど理解できる。
だが、その躊躇の間にも、悲鳴の上がった方角から木々を薙ぎ倒す激しい破壊音が響いてくる。
「……それでも行く」
「ロイ!」
「危険なのは百も承知だ」
俺はエステルの瞳をまっすぐに見据えた。
「でも、あそこにいるのが人間なら」
幼い頃、父ちゃんが聞かせてくれた英雄たちの背中が脳裏をよぎる。
「見捨てて死なせたら、そこで全部終わりなんだよ」
「…………」
エステルは息を呑み、俺の顔を見つめ返した。
やがて。
「はぁぁ……」
深いため息が零れ落ちる。
「何だよ」
「おめでたいお人好しね」
「悪かったな」
「でも」
エステルは掴んでいた俺の腕を離し、俺の横を通り過ぎた。
「嫌いじゃないわ」
「……へ?」
「行くわよ!」
翻る赤髪が、森の深部へと躍り出る。
「置いていくわよ、ロイ!」
「お、おい! 待てって!」
俺も慌てて地を蹴り、その背中を追いかけた。




