『望遠のパラドクス』
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嘘のように青く、見果てぬほどに遠い空がそこにあった。
日差しの眩しさに目を細めながら、合掌抄帷は自身の状態を確認する。
極限状態での全力駆動に加え、とどめの全力疾走。脈打つ鼓動は未だ速く、全身薄らと汗ばんでいるのを感じる。
一陣、風が吹き抜ける。
熱った体が冷やされる心地良さを味わいながら、暫くの間抄帷は瓦礫の上に寝そべったまま、空を見つめ続けていた。
「――よぉ、生きてるかよ、お嬢さん」
ふと。右手に伝わる暖かさと、骨ばった硬さ――そして向けられた声に、首だけを向ける。そこに、見るからに疲れ果てた様子の花蕗静が、ぼんやりと空を見上げていた。
汗ばんだ首筋。顔のそこかしこには血と埃。薄汚れ、血の気の引いたその顔にはしかし、ようやく終わりを告げた様々に対する爽やかさがあった。
「――半分位死んでると思う」
「あんだけすったもんだして、半分も生きてんなら上等だ」
言いつつ、静が上体を起こす。これに抄帷も倣う。
見覚えのある瓦礫の山。二人の姿は、その上にあった。
「……出口が人混みのど真ん中とかじゃなくて助かったぜ。我が身ながら、このナリの理由なんざ聞かれたって答えられやしねーからな」
「普通に通報されそうだよね……だいぶ痛む?右腕」
「ったりめーだ。早いとこ病院行って――と、その前に阿島さん達に連絡しねーと……」
と。そこまで言った静の動作がぴたりと止まる。
やがて暫くの間を空けてから、
「――やっぱ後でいーや。めんどくせぇ」
言葉の通り、心底面倒そうに吐き捨てた。
「めんどくさいって……電話するだけでしょ」
「っるせー……いやまぁ、そうなんだけどよ。こちとら生憎ボロ雑巾状態だもんでな。よく知らねー御人相手に気ぃ使いながら喋るのは、ちょっと今は勘弁願いてーよなってだけだよ」
「……少し黙ろうか?私」
「なんだその斜め下からの提案。文脈とか読めないタイプだったかよ」
「いや、気を使わせるのも心苦しいので」
「アホ抜かせ。今更なんでアンタに気ぃつかわにゃなんねーんだ」
冗談半分、本音が残りの半分。そんな心持ちで放たれた言葉はしかし、これもまたやはり同じく、大変に面倒そうな花蕗静によって一蹴された。
言葉は荒く。そこに生半な優しさの色味など微塵もなかった。だからこそ、か。そんな言葉を向けられるに値する自分になれた気がした抄帷の中には、ほんの細やかな――けれど確かな充足感が満ちていた。
「なんだ。もう気を使ってはくれないんだ」
「ったりめーよ。あんなもんは他所行きも他所行き、ゲスト向けの猫っかぶりだ。二度あるなんざ思うなよ、甘えんな」
「……その割に、あんまり気遣いなんてして貰った記憶がないんだけど。認識の齟齬?」
「馬っ鹿てめー、滅茶苦茶気ぃ遣ってたろーがよ。と言うかアンタ、なんなら俺はそちら様の命の恩人だぜ?コッチに気ぃ回してもらいたいくらいだぜ」
「……お望みでしたら?」
「結構だぜ、不感症……それにま、恩人くんだり言うんだったらこっちこそ、みてーなトコあるしな」
最後の言葉だけは本当に予想外だった抄帷が、ぽかんと口を開ける。静は相変わらずぼんやりとした様子で、正面へと視線を投げるばかりであった。だがやがて、溜息を伴った脱力と共に、力の抜けた柔らかい笑みを口の端に浮かべた。
「……最後の発破、ありゃ効いたぜ。腑抜けのケツ叩くにゃおあつらえ向きだったよ――ありがとな、助かった」
最後の最後。
隔絶空間からの脱出に向けた逃亡劇の、その最中。――花蕗静は一度、諦めていた。
それは本当に一瞬、刹那の間ではあった。だが確かにあの瞬間、静の胸中には諦観があった。
深刻な負傷、肉体的疲労。加えてパラドクスという異能を運用したことによる消耗。そして、異形打倒という目的を果たしたが故の、緩み。それらが折り重なったあの最後の瞬間、静は確かに一度、折れていた。
その脚を前へ。折れた心をもう一度奮い立たせたのは間違いなく、合掌抄帷の言葉だった。
静が改めて、抄帷へと顔を向ける。
傲慢不遜も、凶悪凶暴も形を潜めた、柔らかく穏やかで……ほんの少しだけ悪戯っぽい笑みがそこにあった。
「これで文句無し、だろ」
沸き立つような高揚と、震えるような歓喜があった。それを真っ直ぐ、思うがまま表に出すことは些か不謹慎であるように思われて……それでも強く頷き、確かな同意を抄帷が示す。
「うん――私達の勝ちだ」
腕に刻まれた不気味な痣。そこから始まった数日間の戦いの、ここが終着点だった。
――――
「――そーいや別に、何だっていい話なんだけどよ」
「ん、なに?」
「あの土壇場で、なんで急に名前呼びだったんだ?距離感詰めるタイミング独特すぎね?吊り橋効果どころか、橋焼き切れてる最中に」
「……歯を食いしばったまま声に出しやすかったのが、〝し〟だったからだよ。大体ずっと思ってたけど、その見た目で〝花蕗〟って、風流過ぎるでしょ苗字」
「こらおい、いきなり牙向いてくんじゃねーよ声の出しやすいとか関係ねー話じゃねーかそれ。てめーこそ〝合掌〟なんて面白愉快なラストネームしてやがる癖しやがって」
「人の苗字に、失礼過ぎない?」
「アンタのも似たり寄ったりだろ!」
「私のは褒めてたじゃん!それにそもそも、それ言い出すならそっちだってでしょ!なんで急に名前呼びにしたのさ!」
「呼ぉーびぃーにっくいからだよ!アンタの苗字が!」
脱出の際に握られた手は未だ離れず。その態勢のまま二人は、なんとも間の抜けた言い争いを続ける。ただそれも長くは続かず、やがて二人は揃って疲労を顔に出した。
「……止めよう、不毛過ぎる」
「……とりあえず病院行くわ。このままだとマジに死んじまう気がするし……」
「阿島さん達への連絡はやっておくよ……一人でいける?途中で昏倒とかしない?」
「……知らんけど、そん時ぁ手ぇ貸しに来てくれ。ともかく、もう疲れた……」
「……それはそうだね……」
はた、と。
二人は互いに、緩く繋がれたお互いの手へと視線を落とす。互いの掌から伝わる体温を感じ、小さくない安堵を感じながら……それでも拭えぬ違和感を共に覚えた。
「……コレだけやっぱ、しっくり来ねーな」
「そうだね。しっくり来ない」
「……折角だからアレ、やっとくか」
「アレ?」
「おうよ。あのダッセーやつな」
「……!あぁ、アレか。……そうだね、案外良い締めかもしれない」
繋がれ、そして解かれた互いの手。
不気味な痣に苛まれながら、ただ助けを求めるばかりだったその右手と。
身の丈に合いもしない綺麗事を、最後まで手放せなかった左手。
合掌抄帷と花蕗静。
二人は、それでも固く握り締めた互いの拳を、同じように強く握り締められた互いの拳に、軽くぶつけた。




